次の記事 前の記事

神話と植物の物語

神話と植物の物語ーベルギー紀行ーVol.6

2021.06.16

文・写真/乾 ゆうこ

水の都、ブルージュ(Bruges、フランス語の綴りを英語式に発音)。

 〈北のヴェネツィア〉とも呼ばれる水に囲まれたこの街は、優美で、けれどどこか物憂げな、祈りをささげる貴婦人のよう。

 けれどもその歴史は、きらめく金糸銀糸で彩られたタピスリーのごとくに、ドラマティックで豪奢です。
 カリヨンの音色は軽やかに、踊るように空をわたっていきます。

 フラマン語でブルッヘあるいはブリュッヘ(Brugge) 、ブルグ、ブラヘなどとも発音します。フランス語でブリュージュ(Bruges)。
 フラマン語のブルッヘという言葉は、古代北欧語で〈上陸する場所〉、〈橋〉などという意味があるそうです。

 複雑な歴史を映すあまたの呼び方のなかから、ここではベルギー・フランダース政府観光局のHPに因った、ブルージュという呼び名を使いましょう。

ブルージュの街と深くつながる白鳥たち。そこにもじつはエピソードがある

 今のベルギーのあたりはもともと、ベルガエ人(Belgae)の先住していた地。ローマ軍を率いたガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Lulius Caesar、紀元前100年~紀元前44年、英語でジュリアス・シーザー Julius Caesar)も、自身の記録した『ガリア戦記』(Commentarii de Bello Gallico)に、ベルガエという言葉を記しています。
 この王国の名前は、先住民族の名前に由来するのですね!

 紀元前1世紀ごろからローマ人が侵入して、ローマ化が進みます。3世紀ごろ、フランドルの海岸部には、今度はゲルマン人がやってきました。

 民族の攻防する街。その中心には要塞がつくられます。守りの堅い街は、その後ヴァイキングが猛威をふるう時代にも、掠奪から逃れています。
 現在の市庁舎(Stadhuis)のあるブルグ広場(Burg、ブルフとも)が、街の歴史の始まりの、その場所です。

市庁舎(右)のあるブルグ広場。華やかなフランボワイヤン様式の建物の市庁舎は、ブルージュでもっとも古い建物のひとつ。1376年から1420年にかけて建設された。
真ん中は公文書館(Civiele Griffle、1537年)、左は旧裁判所(Gerechtshof、1727年)

樹木の陰に、聖血礼拝堂(Heilig Bloedbasiliek、1134~1157年)。ブルージュの宝「聖血の遺物」がある。毎年5月のキリスト昇天祭の祝日には、「聖血の行列」がここから街を巡り、祝う。
ジョルジュ・ローデンバック(Georges Rodenbach、1855~1898年)は、象徴派と呼ばれる芸術の潮流のなか、『死都ブリュージュ』(Bruges-La-Morte、1892年)という小説を書いた。小説のなかで「聖血の行列」の様子が鮮やかに描かれている
ブルグ広場の裏手、魚市場となる広場(Vismarkt)。ここまで船が入ってきていた名残でしょうか
魚市場から見える市庁舎や公文書館の、屋根の稜線の連なりが目に楽しい
公文書館の屋根には〈正義〉の像

 街の中心まで船で入ることのできたブルージュは、北海からの玄関口として、北西ヨーロッパの商業の中心となっていきました。
 が、12世紀に津波が街を襲います。この津波は多くの生命や耕地を奪って、大きな被害をもたらしました。

 けれども驚くべきことに、その爪跡、つまり残された深い溝を利用して、人々は運河を整えたのです。

 その後、フランドルの毛織物はますます大きな富をもたらします。遠くジェノヴァ商人との交易も生まれるなど、国際都市としていよいよ絢爛豪華な、栄華の頂点を迎えました。
 ジェノヴァは現在のイタリア北部の都市ですが、かつては貿易で栄えた強力な海洋国家、ジェノヴァ共和国です。

 マルクト広場(Markt)には中世のギルドハウスが並び、経済力を得た市民たちによって建てられた、巨大な鐘楼(Belfort、ベフロワ)もそびえます。
 この鐘楼は、まさに市民たちの誇りなのです。

13~15世紀に建設された鐘楼は、数度の火災で再建、増築されて、83mの高さとなる!
カリヨンはその後組まれた
マルクト広場。ギルドハウス(ギルドは職業別同業者組合)の屋根は、中世フランドル地方の特徴的な、階段状の屋根
今はカフェやギフトショップになっている、ギルドハウス
マルクト広場にはまた、ブルージュの歴史を学べるヒストリウムや、西フランドル州庁舎も並んでいる
広場に続く通りからも見える鐘楼。通りを歩いていると、カリヨンの音が聞こえて

 けれども、やがて大飢饉やペストの時代が訪れます。その後15世紀には運河に土砂が堆積して、大型船が入れなくなりました。
 さらに、政治的激動や織物産業の移り変わりなど、さまざまな要因で、街は衰退していきます。

 そうして、街は中世の姿のまま、眠りに入りました。

 19世紀に水路が整えられると、水の都は、その美しい景観でふたたび人々を魅了します。
 芸術家や詩人たちは霊感を受け、象徴派や世紀末の、甘美な夢幻の花々が咲き誇りました。

 それにしても、水面とは不思議なものです。
 そこに映る世界は、もはや地上とは異なる風景。あかず眺めてしまいます。

 そして、水のあるところは落ち着きます。思えばひとの身体も、65パーセントくらいは水です。そういえば私たちは生まれ出でるまで、羊水というお水のなかで微睡(まどろ)んでいたのでしたっけ。

 刻々とさまざまに変化して、とらえどころのない水。生命の源でもあり、感情や無意識の領域にも関与して、さらに浄化の力をももっている、水。
 水は意識の深い層にまで流れ込んで、そこから私たちに働きかけてくるのかもしれませんね。

 運河の水の流れを、そして水辺にたたずむ木々を眺めるうちに、北欧神話のなかの、洪水のような場面を思い出しました。

 黄金のリンゴを守る女神イドゥン(Iðunn)を騙して連れ出したり(Vol.23)、ヤドリギで光の神バルドル(Baldr)を射させたりした(Vol.4)、あの悪戯好きのロキ(Loki)が、今回も絡んでいます。

 あるときロキは、女神フリッグ(Frigg)の〈鷹の羽衣〉をつけて、世界を飛びまわって遊んでいました。羽衣は、盗んだという話と、借りたという話があります。
 そして、巨人ゲイルロッド(Geirröd)に捕まってしまいます。

 鷹の姿のまま3ヶ月、飲まず食わずで閉じ込められて、とうとうロキは名前を白状します。
 鷹がロキ神であることを知ると、巨人は大喜び。逃がしてやる代わりに、トール神(Þórr)を連れてこい、という交換条件を出しました。

 トールは大きくて、神々のなかで一番力の強い、雷の神様です。戦いの神様ともいわれます。
 魔法のハンマー〈ミョルニル〉をもっていて、これで巨人たちを倒したりするので、巨人たちにとって厄介な相手です。
 そのトールを、武器をもたせずに連れてこい、というのでした。

 さて。
 ロキはトールをうまく誘って、一緒に出発します。やがて巨人の国へ入ると、まずは、グリッド(Gríðr)という巨人の家で休みました。

 ところでグリッドは巨人ですが、神々との関わりがあります。オーディン神(Óðinn)を父として、のちに大切な働きをするヴィーザル神(Víðarr)の、母なのです。
 ロキが先に寝ると、彼女はトールに、用心のために自分の帯と手袋と、杖〈グリダヴォル〉を持って行くように、と忠告します。

 翌朝、グリッドの家を出て先へ進むと、広い川に出ました。
 トールはグリッドから借りた帯を締めて、杖を流れに突き立てながら、川を渡っていきます。ロキはというと、トールの締めた帯にしっかりつかまっています。

 川の真ん中あたりまで来ると急に、水が勢いよくトールの肩までかかってきました。
 不思議に思って川上を見ると、ゲイルロッドの娘ギャルプ(Gjálp)が川を跨いでいます。

 水かさの増えた原因を知って、トールは流れのなかから大きな石をつかんで、ギャルプに投げつけました。水は引き始めました。
 そのときトールは、ナナカマドの樹に気づきます。そして枝をつかむと、ようやく岸に上がることができました。

 このことからナナカマドは、〈トールの救い〉〈トールの保護〉(Thorsbjörg)と呼ばれるようになりました。ナナカマドはケルトでも、もちろん聖なる魔法の木です。

右側の大きな樹は、ナナカマドに似ていました。ボートで通り過ぎるときに撮ったので、ちょっとはっきりしませんけれど。正面に見えるのはヤナギでしょうか。ヤナギの話は、ギリシア神話にありましたね(「神話と植物の物語―北イタリア紀行―」Vol.4

 ほんとうにロキはひどいことをたくさんするのですが、彼らは他にも一緒に旅します。仲良しなのでしょうか?
 大切なミョルニルが盗まれたときなどは、トールはロキの作戦に従って、花嫁の恰好までするのです。

 ロキやロキのすること、そして周りの神々の対応を見ていると、北欧神話の世界は、人間の善悪の判断や、好き嫌いでははかれません。神話とは、まあそういうものですね。

 ときに容赦のない厳しさを見せつける、人の力などとうてい及ばない、北の自然界。
 けれども夜空を仰げば、真昼の空からは想像もできない、オーロラ! 美しく、神々しく、妖しくさえある、オーロラの光の帯の揺れる、北欧の天空。

 オーロラは、ヴァルキュリア(Valkyrja、ワルキューレ)たちの、盾と鎧のきらめきともいいます。彼女たちは、戦死した者から勇者を選んで、彼らをヴァルハラ(Valhöll)の宮殿へ連れていく、〈死者を選ぶもの〉の意味をもつ乙女たち。

 きらめきながら天翔ける、勇ましい乙女たちも登場する、神秘的で雄大な、北欧の神話の世界。
 そんな超世界の旅を、もう少し続けましょう。

夜明け前に。運河のほとりのホテルの窓から、刻一刻と明るくなっていく街並みや、水面を眺めるのは旅ならではの至福の時間

クリエイターの紹介

乾 ゆうこ

ライター

ホリスティックハーバルセラピスト。大学時代に花椿編集室に在籍し、「ザ・ギンザ・アートスペース」(当時の名称)キュレーターを経て、ライター・エディターとして活動。故・三宅菊子氏のもと『フィガロ・ジャポン』『家庭画報』などでアート・映画・カルチャーを中心に担当。出産を機に伝統療法や自然療法を学び、植物の力に圧倒される。「北イタリア植物紀行(全4回)」「アイルランドから〜ケルト植物紀行」(ともに『クレアボー』フレグランス・ジャーナル社)など執筆。生活の木(表参道校)では不定期にクラスを開催している。

もっとみる

この記事に関するタグ検索