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神話と植物の物語

神話と植物の物語ーベルギー紀行ーVol.10

2021.10.14

文・写真/乾 ゆうこ

前回のVol.9に続いて、アントワープの街を歩きましょう。

 聖母大聖堂(Vol.9)の有名な祭壇画を描いた、フランドルの誇る大画家、ルーベンス(Peter Paul Rubens、1577年~1640年)。
 彼は16世紀後半から17世紀に、ヤン・ファン・エイクやヒエロニムス・ボス、ハンス・メムリンクやピーテル・ブリューゲルらに続いて、フランドル絵画(Vol.4)の輝かしい歴史をつくりました。
 ルーベンスの住んだここアントワープでは、彼の芸術を堪能することができます。

ルーベンスの住居であり、アトリエでもあった建物は、ルーベンスの家(Rubenshuis)と呼ばれる博物館として公開されている
彼は1610年に邸宅を購入して、改装して生涯住んだ
噴水などもある明るい道が、ルーベンスの家へ続く

 ルーベンスはイタリアで、ルネッサンス後期やマニエリスムの芸術などを学び、かのマントヴァ公の、宮廷画家ともなりました。マントヴァは、この「神話と植物の物語」シリーズの〈北イタリア紀行―Vol.4〉で訪れましたが、芸術が擁護されて、絢爛たる文化の花咲いた、誇り高き都市です。

 その、ドラマティックな構図、やや誇張気味とも思われる壮大な表現。
 彼の評判は高く、膨大な数の作品を描きました。バロック時代を代表する画家のひとりとして名声を得ます。
 さらに外交官としても活躍していたというのですから、なんというエネルギッシュな生涯でしょうか。

 いっぽうこの時代のアントワープは、圧政に苦しめられました。さらに、ペストの流行もありました。
 ルーベンスも、友人や愛する妻をペストで失います。その悲しみから、外交官の仕事に忙しく出かけた、といわれます。それでも、62歳で没するまでの仕事を見ると、やはり常人とは思えないですね。

その庭園もまた楽園のよう
壁のレリーフが神話的な雰囲気をかもしだす
庭園には香りの良いハーブが植えられて、ミツバチや蝶も誘われる

 ルーベンスの家や聖母大聖堂からほど近い場所には、すばらしい教会芸術に飾られた、美術館ともいえるような教会が並びます。じっさい、かつて教会は、美術館だったともいえますね。
 そのなかには、彼がファサード(建築の正面デザイン)の装飾を手掛けた教会や、彼のお墓のある教会もあります。

聖カロルス・ボロメウス教会(Sint-Carolus Borromeuskerk)。ファサードの装飾にルーベンスも携わる
ルーベンスなどの絵画のほかにも、彫刻群がすばらしい、聖パウルス教会(Sint-Pauluskerk)
街の辻々では聖母子像が人々を見守っている

 散策しながら、ユニークなデザインで話題の博物館、MAS(Museum Aan de Stroom)へ向かいましょう。

 この建物はかつての港の一角にあり、ここも古い建物や新しい建物が、混在する地区です。港沿いの作業場の装飾でさえ、優美な曲線がかわいらしい。
 心を向けて手をかけた細部には、仕事をすることの喜びや誇りも宿ります。

装飾のある屋根の続く、古い港の一角
中央は、1501年から建築が始まって1504年に完成した、〈肉屋のギルドハウス〉とも呼ばれる畜産組合会館(現在はヴレースハウス博物館Museum Vleeshuis)の建物
スヘルデ川に船がついたことを見る物見塔(写真中央)、かつてはたくさんあったという

 アントワープの街の名前が、〈手〉にまつわることをVol.9で記しましたが、MASの建物の壁には、銀色の〈手〉のオブジェが、なんと、およそ3000個埋め込まれているそう。

 Mでは、ブリュッセルのオメガング(Ommegang、中世からの、伝統的な祭礼の行列)を描いた17世紀の絵画や、デッサンなども見られます。

 そういえばオメガングの起源は、Vol.3でご紹介したように、1348年にヴィジョンを見た少女が、聖母子像をもってブリュッセルに到着したことでした。
 それは、このアントワープから出発した旅でした。

 博物館は民俗学的な資料展示が多いので、まさに古代から現代までを旅することのできる場所です。
 土地に根ざした民族独自の感受性と、あまねくさまざまな民族に共有される感覚の、両方どちらにも物語があります。それぞれに普遍的で、力強い。
 ここからあらたに、広い世界へ、旅の夢も広がっていきますね。

 ちょうど、〈生と死〉をテーマにした展示を見られましたが、それは人類を地球規模でみつめる大きな視点。
 それにしても、民俗芸術の呪術の力は強烈で、目を奪われます。
 そして、ときにユーモラス。これも生きるうえで、とても大切なことですね。

MAS
ブリュッセルのオメガングが描かれている。作者はキャプションにAlexander Casteels Ⅱ 1665-1682、とあるので、17世紀後半に描かれたことがわかる。人で埋め尽くされたグランプラス
オメガングの絵の、細部のデッサンが可愛い
MASに展示されていた絵。天馬に誘われる
この年に開催された展覧会の告知
〈WHAT IS GOLD WORTH TO YOU?〉なんてダイレクトなタイトルでしょう。思えばアントワープは、ダイヤモンド取引でヨーロッパの中心といえる、金融の街でもある

 そう、〈生と死〉。
 北欧神話では、神々はついに、運命〈ラグナロク〉(Ragnarøk)を迎えます。

 神々の世界に、巨人たちが押し寄せる。
 彼らが虹の橋ビフレストを越えるとき、橋は震えて、ついに轟音とともに砕けてしまった。

 虹の橋の見張り番ヘイムダルは、一行が迫ってくるのを見ると、角笛ギャラルホルンを高く吹き鳴らす。
 角笛の音に、すべての神々は集った。

 神々は武器を身につけた。
 そして、ヴァルハラのすべての死んだ勇者たちとともに、神々の王オーディン(Óðinn)を先頭にして、ヴィーグリーズの野に出陣した。

 グングニルの槍をとって、オーディンは巨大な怪物狼に立ち向かう。が、狼は、神を吞み込んでしまった。
 つぎの瞬間、オーディンと巨人の間に生まれたヴィーザル(Víðarr)は、母から与えられた強い靴で、狼の顎に足をかけ、その口を引き裂いて狼を倒す。

 戦いの神、雷の神トール(Þórr)はその間ずっと、大地をぐるりと取り巻く巨大なミッドガルド蛇と戦っていた。トールは相手に致命傷を与えたが、この怪物の吐きかけた毒のために、その勝利のあとで倒れてしまった。

 別の場所では、もはや神々の敵となったロキ(Loki)と、虹の橋の番人ヘイムダル(Heimdall)
が、互いに相手に致命傷を与えあっていた。
 炎の巨人スルト(Surtr)は、神々と巨人や怪物の戦いの果てに、炬火(こか)を大地に投げ放つ。

 いまや全世界は、火炎に包まれて燃えあがった。

「太陽は暗く、大地は海に沈み、きらめく星は天から落ちる。
煙と火は猛威をふるい、火炎は天をなめる」

(「巫女の予言」、谷口幸男訳『エッダ―古代北欧歌謡集』、新潮社)

 ときがたった。
 炎は消え落ちた。
 そして、すべてが静まりかえったとき、青々とした大地が、海中からふたたび浮きあがってきた。

 太陽は狼に呑み込まれたが、新たに生まれた太陽の娘が、母親の軌道を回りはじめる。

 野には、さまざまな花が咲きみだれ、さまざまな果実もなった。
 山からは滝が流れ落ち、鷲は空のうえ高く飛んで、輪を描く。

 この激しい騒乱のあとに、生き残った神々もいた。

 オーディンとトールの息子たちが、無傷で現れた。
 ヤドリギで射られて死んだバルドル(Baldr)も、定めのとおり、死の国から戻ってきた。

 しばらくすると、森の奥に隠れていた、リーヴ(Lif)とリーヴスラシル(Lífþrasir)が姿を現す。
 やがて、この2人から新しい種族がふえて、地上を満たしていく…。

「種 撒かぬまま
  畑は 実を 結ばん。
  不幸という不幸は ことごとく 改まらん。

  (中略)
  そして 二人の兄弟の
  息子らは 住む、
  広大なる 風の世界に。

  (中略)
  そこには 罪なき
  人々が 住み、
  とこしえに
  幸いを 享受せん。」

(尾崎和彦著『北欧神話 宇宙論の基礎構造』、白凰社)

 新しい大地は、自然に実っているといいます。
 これを、小麦、と書く本もあります。

 生命はあらたに芽生えます。
 こうして、世界は新しく始まります。
 そうしてまた、続いていくのですね。

(ヘイムダルはVol.8、トールはVol.6、バルドルとヘズはVol.4、ロキはVol.2346で、登場します)

MASからの街の眺望
街と反対側に広がるスヘルデ川。
巨人伝説のある川の向こう岸には、発電所も見える
MASの向かいのビルの壁にも作品が
さまざまな植物の揺れる、楽園のようなルーベンスの庭。
「わたしたちはどこへ行くのか」、画家ゴーギャンはそう問いかけた。
楽園へ、向かいたいですね

クリエイターの紹介

乾 ゆうこ

ライター

ホリスティックハーバルセラピスト。大学時代に花椿編集室に在籍し、「ザ・ギンザ・アートスペース」(当時の名称)キュレーターを経て、ライター・エディターとして活動。故・三宅菊子氏のもと『フィガロ・ジャポン』『家庭画報』などでアート・映画・カルチャーを中心に担当。出産を機に伝統療法や自然療法を学び、植物の力に圧倒される。「北イタリア植物紀行(全4回)」「アイルランドから〜ケルト植物紀行」(ともに『クレアボー』フレグランス・ジャーナル社)など執筆。生活の木(表参道校)では不定期にクラスを開催している。

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