水の都、ブルージュ(Bruges、フランス語の綴りを英語式に発音)。
〈北のヴェネツィア〉とも呼ばれる水に囲まれたこの街は、優美で、けれどどこか物憂げな、祈りをささげる貴婦人のよう。
けれどもその歴史は、きらめく金糸銀糸で彩られたタピスリーのごとくに、ドラマティックで豪奢です。
カリヨンの音色は軽やかに、踊るように空をわたっていきます。
フラマン語でブルッヘあるいはブリュッヘ(Brugge) 、ブルグ、ブラヘなどとも発音します。フランス語でブリュージュ(Bruges)。
フラマン語のブルッヘという言葉は、古代北欧語で〈上陸する場所〉、〈橋〉などという意味があるそうです。
複雑な歴史を映すあまたの呼び方のなかから、ここではベルギー・フランダース政府観光局のHPに因った、ブルージュという呼び名を使いましょう。
今のベルギーのあたりはもともと、ベルガエ人(Belgae)の先住していた地。ローマ軍を率いたガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Lulius Caesar、紀元前100年~紀元前44年、英語でジュリアス・シーザー Julius Caesar)も、自身の記録した『ガリア戦記』(Commentarii de Bello Gallico)に、ベルガエという言葉を記しています。
この王国の名前は、先住民族の名前に由来するのですね!
紀元前1世紀ごろからローマ人が侵入して、ローマ化が進みます。3世紀ごろ、フランドルの海岸部には、今度はゲルマン人がやってきました。
民族の攻防する街。その中心には要塞がつくられます。守りの堅い街は、その後ヴァイキングが猛威をふるう時代にも、掠奪から逃れています。
現在の市庁舎(Stadhuis)のあるブルグ広場(Burg、ブルフとも)が、街の歴史の始まりの、その場所です。
街の中心まで船で入ることのできたブルージュは、北海からの玄関口として、北西ヨーロッパの商業の中心となっていきました。
が、12世紀に津波が街を襲います。この津波は多くの生命や耕地を奪って、大きな被害をもたらしました。
けれども驚くべきことに、その爪跡、つまり残された深い溝を利用して、人々は運河を整えたのです。
その後、フランドルの毛織物はますます大きな富をもたらします。遠くジェノヴァ商人との交易も生まれるなど、国際都市としていよいよ絢爛豪華な、栄華の頂点を迎えました。
ジェノヴァは現在のイタリア北部の都市ですが、かつては貿易で栄えた強力な海洋国家、ジェノヴァ共和国です。
マルクト広場(Markt)には中世のギルドハウスが並び、経済力を得た市民たちによって建てられた、巨大な鐘楼(Belfort、ベフロワ)もそびえます。
この鐘楼は、まさに市民たちの誇りなのです。
けれども、やがて大飢饉やペストの時代が訪れます。その後15世紀には運河に土砂が堆積して、大型船が入れなくなりました。
さらに、政治的激動や織物産業の移り変わりなど、さまざまな要因で、街は衰退していきます。
そうして、街は中世の姿のまま、眠りに入りました。
19世紀に水路が整えられると、水の都は、その美しい景観でふたたび人々を魅了します。
芸術家や詩人たちは霊感を受け、象徴派や世紀末の、甘美な夢幻の花々が咲き誇りました。
それにしても、水面とは不思議なものです。
そこに映る世界は、もはや地上とは異なる風景。あかず眺めてしまいます。
そして、水のあるところは落ち着きます。思えばひとの身体も、65パーセントくらいは水です。そういえば私たちは生まれ出でるまで、羊水というお水のなかで微睡(まどろ)んでいたのでしたっけ。
刻々とさまざまに変化して、とらえどころのない水。生命の源でもあり、感情や無意識の領域にも関与して、さらに浄化の力をももっている、水。
水は意識の深い層にまで流れ込んで、そこから私たちに働きかけてくるのかもしれませんね。
運河の水の流れを、そして水辺にたたずむ木々を眺めるうちに、北欧神話のなかの、洪水のような場面を思い出しました。
黄金のリンゴを守る女神イドゥン(Iðunn)を騙して連れ出したり(Vol.2、3)、ヤドリギで光の神バルドル(Baldr)を射させたりした(Vol.4)、あの悪戯好きのロキ(Loki)が、今回も絡んでいます。
あるときロキは、女神フリッグ(Frigg)の〈鷹の羽衣〉をつけて、世界を飛びまわって遊んでいました。羽衣は、盗んだという話と、借りたという話があります。
そして、巨人ゲイルロッド(Geirröd)に捕まってしまいます。
鷹の姿のまま3ヶ月、飲まず食わずで閉じ込められて、とうとうロキは名前を白状します。
鷹がロキ神であることを知ると、巨人は大喜び。逃がしてやる代わりに、トール神(Þórr)を連れてこい、という交換条件を出しました。
トールは大きくて、神々のなかで一番力の強い、雷の神様です。戦いの神様ともいわれます。
魔法のハンマー〈ミョルニル〉をもっていて、これで巨人たちを倒したりするので、巨人たちにとって厄介な相手です。
そのトールを、武器をもたせずに連れてこい、というのでした。
さて。
ロキはトールをうまく誘って、一緒に出発します。やがて巨人の国へ入ると、まずは、グリッド(Gríðr)という巨人の家で休みました。
ところでグリッドは巨人ですが、神々との関わりがあります。オーディン神(Óðinn)を父として、のちに大切な働きをするヴィーザル神(Víðarr)の、母なのです。
ロキが先に寝ると、彼女はトールに、用心のために自分の帯と手袋と、杖〈グリダヴォル〉を持って行くように、と忠告します。
翌朝、グリッドの家を出て先へ進むと、広い川に出ました。
トールはグリッドから借りた帯を締めて、杖を流れに突き立てながら、川を渡っていきます。ロキはというと、トールの締めた帯にしっかりつかまっています。
川の真ん中あたりまで来ると急に、水が勢いよくトールの肩までかかってきました。
不思議に思って川上を見ると、ゲイルロッドの娘ギャルプ(Gjálp)が川を跨いでいます。
水かさの増えた原因を知って、トールは流れのなかから大きな石をつかんで、ギャルプに投げつけました。水は引き始めました。
そのときトールは、ナナカマドの樹に気づきます。そして枝をつかむと、ようやく岸に上がることができました。
このことからナナカマドは、〈トールの救い〉〈トールの保護〉(Thorsbjörg)と呼ばれるようになりました。ナナカマドはケルトでも、もちろん聖なる魔法の木です。
ほんとうにロキはひどいことをたくさんするのですが、彼らは他にも一緒に旅します。仲良しなのでしょうか?
大切なミョルニルが盗まれたときなどは、トールはロキの作戦に従って、花嫁の恰好までするのです。
ロキやロキのすること、そして周りの神々の対応を見ていると、北欧神話の世界は、人間の善悪の判断や、好き嫌いでははかれません。神話とは、まあそういうものですね。
ときに容赦のない厳しさを見せつける、人の力などとうてい及ばない、北の自然界。
けれども夜空を仰げば、真昼の空からは想像もできない、オーロラ! 美しく、神々しく、妖しくさえある、オーロラの光の帯の揺れる、北欧の天空。
オーロラは、ヴァルキュリア(Valkyrja、ワルキューレ)たちの、盾と鎧のきらめきともいいます。彼女たちは、戦死した者から勇者を選んで、彼らをヴァルハラ(Valhöll)の宮殿へ連れていく、〈死者を選ぶもの〉の意味をもつ乙女たち。
きらめきながら天翔ける、勇ましい乙女たちも登場する、神秘的で雄大な、北欧の神話の世界。
そんな超世界の旅を、もう少し続けましょう。