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SHISEIDO Your Song

2023.06.10

2. スープ飲みたい

文藝春秋 2023年7月号 掲載より

引越しの日に雨が降る。5年つとめたアパレルの会社を辞め、住む場所も変えることにした。生き方を見直すきっかけになった出来事があったとだけ母には伝えた。好きで入った世界と噛み合わなかった日々ではあるが、慣れた環境を手放すのはとても消耗する。ぺしゃんこの私。だが、ここではないどこかに行かなくては。這うように、直感的に引越し先は縁もゆかりもない葉山の町にした。
夜。段ボールの山をかきわけシャワーを浴びて、まだ何もない洗面台に買ったばかりの化粧水を置く。オイデルミン。赤がすごい。瞬時に場の空気が変わる。色ってパワーだ。今まで使ったことのないものを選んだのは、熱が下がったとき滋養のあるスープを飲みたくなるように、何か力のあるものを身体が欲したのかもしれないなと思う。
そういえばオイデルミンは、美大生時代にともだちの部屋で初めて見た。すっとそびえ立つ美しいボトルは20㎡のワンルームの一角に小さな神殿をつくっているように見えたっけ。それがセルジュ・ルタンスのデザインだということ、おばあちゃんもこの化粧水を使っていたということを教えてくれたともだち、名は小雨ちゃん。…元気かなぁ。ふいに降りてきた記憶もいっしょに、両手で顔を包み込む。なんだか手のひらがちがう。とろみのある柔らかで濃密なうるおいが、波のように奥まで寄せてくる。からっぽの場所のすみずみまで染み入る。心で何かが少しずつ回復してゆく。…満ちた。
翌日。日没前の一色海岸で、夕陽を溶かした命のスープみたいな水に素足を浸していると「安藤ちゃん!」と突然、自分の名を呼ぶ声がして、えっ?とふり返る。見知らぬ女の子たちが、あはは!と笑いながら通り過ぎていった。あはは。私も声にしてみる。イマイチな声。でも悪くない。この先どうなるんだろうという不安も、ここからどこへでも行けるという魂の自由も。すべて抱えて、私の再生の物語はつづいてゆく。どこまでも。

資生堂のヘリテージ、赤い水。
SHISEIDO オイデルミン エッセンスローション(化粧水)

モデル:SAYULI
PH:上田義彦
C:国井美果
AD:高田大資
CD:山形季央
P:綿引しな乃
スタイリスト:山本マナ
メイク:中山夏子
ヘア:藤岡幹也