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東京喫茶部

2017.09.27

東京喫茶部「ワンモア」

文/小谷 実由

写真/島田 大介

今回訪れたのは江戸川区平井にある「ワンモア」。平井は私の生まれ育った場所の近く。幼い頃、初めて電車にひとりで乗って行った駅は平井だったと思う。ピアノ教室に通っていた。大好きだった前の先生が田舎に帰ることになり、新しい先生になった。新しい先生の教室があるのは平井。人生で二人目のピアノの先生、毎週ひとりで乗らなきゃいけない電車、もうそれだけで不安要素たっぷりのイメージの平井。

ほどなくしてピアノ教室はやめてしまった。ピアノを続けることができなかったのは今考えてみると練習を面倒くさがった自分のせいである。しかし子供の頃の私は都合よく、全て平井に含まれるたっぷりの不安要素のせいにしてしまった。

そんな少し後ろめたさのある場所は、それから何年も毎日のように電車で通過することになる。だんだんとそんな後ろめたさも子供時代の苦い思い出になっていた頃、「ワンモア」の名前を耳にする。こんなにも近くに、大好きな喫茶店という存在があったなんて。その頃私は喫茶店を目指し、新宿や浅草などに出向いていた日々だった、平井駅を素通りして。

「ワンモア」のある場所は、私が毎週重い足取りで向かっていたピアノ教室とは真逆の方向に存在していた。真っ赤な丸い看板にスルスルと音が聞こえてきそうなフォントで書かれた店名。私はこの看板が大好きである。目が覚めるような赤の中に浮かび上がるハイカラなフォント、いつ見ても何度見ても心が高揚しながらもため息が出る。

いつもフレンチトーストとクリームソーダを注文する。ここのフレンチトーストはレモンの輪切りがのっていて、クリームソーダの色はブルー。この二つを一挙に目の当たりにすると、店先の看板に与えられた高揚感がまた一回り大きくなって胸を打つ。ふわふわの中にもしっとりと卵に浸かった濃厚なフレンチトーストはレモンの酸味とよく合わさり、気づいたら、ない!と思うほど夢中で食べきってしまう。ブルーのクリームソーダはグリーンのクリームソーダより好き。アイスが溶けると優しいブルーになる。

今日座った席は入ってすぐの磨りガラスの窓際、新鮮そうな卵がたくさん入った冷蔵ケースを背にした席。ここは黒い革の肘掛けのような、出っ張りがある席。ここで頬杖をつきながら物思いに耽る。いつも考えてしまうのはもちろん幼い頃のピアノ教室のこと。あのままピアノを続けていたら、そのうち家にグランドピアノが来たかな、もっと手が細長く綺麗になったかな、大人になった私は今とは違う私だったかな。そう思いをめぐらせる今の自分のことはあまり嫌いではない。

もうひとつ好きな席は入って左にあるグリーンのソファーのコーナー。今日はソファーのグリーンと同じ色のアンサンブルで決めた婦人が座っていた。彼女もまた、私と同じように喫茶店に合わせて洋服選びをする人なのかもと、同志を見つけたような気分で胸が高鳴った。

今日の私はフレンチトーストのようなイエローのシャツ。最近、日に日に秋めいてきたが、真夏に秋への気持ちが抑えきれずに早足で買ったシャツである。

子供の頃自分に都合よく嘘をついてしまっていた出来事と、時間が経つほど少しずつ芽生えていた後悔の気持ちでなんとなく後ろめたさが渦巻いていた場所、平井。でも、「ワンモア」に出会って、好きなものを見つけることができた場所になった、平井。今まで、“一度きり”のほうが刹那的だと好んでいた結果、失敗もするしいろいろなことを諦めていたけど、”もう一度”も悪くないということがわかったような気がした。

ワンモア
住所:東京都江戸川区平井5-22-11
TEL:03-3617-0160
営業時間:9:30〜16:30(LO16:00)
不定休

小谷実由

モデル

1991年東京生まれ。14歳からモデルとして活動を始める。自分の好きなものを発信することが誰かの日々の小さなきっかけになることを願いながら、エッセイの執筆、ブランドとのコラボレーションなども取り組む。 猫と純喫茶が好き。通称・おみゆ
https://www.instagram.com/omiyuno

島田大介

映像作家/写真家

映像ディレクターとしてキャリアをスタート。数々のCM やMUSICVIDEO などを演出し、カンヌ広告祭をはじめ国内外数々の賞を受賞する。2018 年、代表を務めた映像制作会社コトリフィルムを解散。 現在は作家としての制作を中心に活動中。