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今月の詩

2018.06.12

つま先から

詩/なみか

重なり合うシャワーの音
さっぱりしたつま先から
そっと湯船に浸かり 脚を伸ばし
壁に描かれた海で泳ぐイルカを眺めた

角が少し剥がれたタイルに触れる
私の指 色の欠けたマニキュアに似ていて
これまでの日々 頑張ってきたのだと思う

凝ってしまったら銭湯に来るの
肩 背中 ふくらはぎ その他フシブシ
ひとつずつ元に戻してあげなくちゃ

もうすっかり慣れてしまったね
ロッカーの鍵を手首に巻くことや
鼻をくすぐる塩素の清潔そうな匂い
若いままではいられない この肌にも

私だって自由に泳ぎ回れたらな
目を閉じて 深く深く潜って
ここじゃない誰かのいるところまで

でも もう元に戻してあげなくちゃ

大きく息を吸い直した
ここはいつでも自由な生活だったこと
きちんと思い出せたら つま先から
そっと今日の最後に向かって歩き出そう

選評/文月悠光

古い銭湯と、疲れた〈私〉が呼吸を合わせていくような描写に惹かれました。〈元に戻してあげなくちゃ〉と自分の身体を修繕するひととき。イルカの自由さに惹かれながらも、それは自分にも備わっていたものだと〈きちんと思い出〉す謙虚さ。明日ではなく〈今日の最後〉を選んでいる点にも、丁寧な向き合い方が見えて、ほっと安心するような作品でした。自由に泳ぎだせたら素敵だけど、このつま先で届く場所まで、まずは歩いてみたい。