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今月の詩

2024.03.01

詩/沖田めぐみ

隣の庭で 草刈り機の音がして
うるさいなあ、と顔をしかめる
起きてしまうかもしれない、と
赤ん坊の顔をみると
そこに、仏がいた
仏は 何ごともないかのようなお顔で
眠り続けなさった

人間に 肉体のすべてを委ねて
差し出されたものを 疑いもなく口に入れ
抱かれた腕の中で
押し黙ってらっしゃる、仏

ミルクをたらふく飲んだあとに
げっぷを なかなかお出しにならず
慌てふためく人間たちを横目に
じっと背を叩かれる、仏

うつぶせになると
ときおりお顔をあげて
人間にはおよそ見えないものを見て
微笑んでおられる
仏がニコリと微笑むと
まるで鏡のように笑う人間
その鏡を見て
またピタリと元のお顔に戻られる、仏

まるでこの世のすべてを受け入れている
ような 
仏の顔をしたわが子に
どうして この世のことを教えることが
できようか
人間である、この母が

 

 

選評/環ROY

私は父親で、二人の子どもがいる。乳児期における育児の記憶はずいぶん曖昧になっているが、最初の子どもが生まれたとき、私にも「仏タイム」と呼んでいる時期があった。彼らは生まれてからしばらくの間、自身が娑婆に来たことに気づいていない様子だった。世界には昼夜や季節などのサイクルがあり、肉体があり、重力があり、呼吸する必要がある。それらを明確に認識できていないように感じられた。生後4ヶ月ほど経つと、彼らはこの世界に法則があることを理解し始め、世界のリズムを掴もうとする。しかし、適応は思いのほか難しく、物理的な法則と自身の精神が度々衝突し、混沌のなかに徐々に意識を構築しているようだった。特に、生後1~3ヶ月の乳児は、人間とは言い難い雰囲気を漂わせている。身体感覚が世界と一体化しているような、時間感覚が過去と未来の一切ない完全な「いま」となっているような、端的にいって動物そのものではあるが、あまりに未熟で自律性に乏しく、動物らしいとも思えなかった。それでいて小さな人間の姿をしているものだから、非常に不可思議に感じられ、この時期を私は「仏タイム」と呼んでいた。このような経験を、作者は愛情たっぷりに驚くほど率直に描いている。育児を経験している親として強い共感を覚えた。平易さや素朴さが際立つと同時に、新生児の母親になった女性の機微が表現された間口の広い作品だと感じた。