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恋する私の♡日常言語学

2019.10.11

恋する私の♡日常言語学                 Ordinary Language School【Vol.3】

文/清田隆之(「桃山商事」代表)

協力/小川知子

イラスト/中村桃子

vol.3 いま恋愛に最も必要かもしれない「エンパシー」のお話

「恋愛とことば」をテーマにした連載「恋する私の♡日常言語学─Ordinary Language School」。かつてオックスフォード大学で哲学を学ぶ人々を中心に「日常言語の分析が哲学者の中心課題だとする方法意識」という思考のもとうまれた「Ordinary Language School」(日本大百科全書より)。この思考にヒントを得て、数々の恋愛話を傾聴してきた恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表の清田隆之と、『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)の選者も務め、人から話を聞くことを専門とするライターの小川知子が、「ことば」をめぐる恋愛の諸問題について語り合っていきます。
 意中の人や恋人となんだか上手くコミュニケーションが取れなかったり、すれ違いに悩んでいるあなた! その原因は「ことば」にあるかもしれません!

「誰かの靴を履く」とはどういうことか

清田隆之(以下清田) 今回のテーマは「エンパシー(empathy)」です。のっけから「どういうこと?」って話だと思うけど、これは今、我々の間で最もホットなキーワードなんだよね。

小川知子(以下小川) そうそう。エンパシーは一般的に「共感」と訳されることばで、類義語である「シンパシー(sympathy)」とは区別して使われている。その違いは後ほど詳しく触れようと思うけど、これを取り上げたいと思ったきっかけが、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ/新潮社)という本を読んだことだった。

清田 俺も小川さんにオススメされて読んだけど、マジでしばらく動けなくなるくらい感動してしまったよ……。これはイギリスで暮らす著者のブレイディみかこさんが中学生の息子について書いたエッセイで、根底に流れているテーマが「エンパシー」なんだよね。

小川 ブレイディさんの息子はアイルランド人の父と日本人の母のミックスで、身のまわりにも多様なルーツや背景を持った友人や大人たちが暮らしている。人種に宗教、思想信条や家庭環境、地域差や経済格差……などいろんな差異が混在する「マルチカルチュラル(多文化)」な社会の中で様々な葛藤やモヤモヤと対峙していくわけだけど、その姿勢が本当に素晴らしくて学ぶことしかない。

清田 こんな中学生がいるとは……って、本当に衝撃だった。彼はとにかく考えることをやめないんだよね。「なぜだろう?」「どういうことだろう?」「自分はどう感じたのか?」「相手は何を思っているのか?」って、常に頭を働かせ続けている。それは決してお勉強的な姿勢ではなく、多様性に満ちた社会の中で他者と共生していくための、身体感覚を伴った葛藤という感じがした。

小川 彼が“間”にいる人間というのも大きいんだろうな。イギリスでは”アジア人”として扱われ、日本に来ると“外国人”と見なされる。異端として露骨な差別もされるし、逆に上級生の中国人から同朋として守ってもらえたりもする。でも彼はどちらの場合でも思い悩むんだよね。なぜアジア人というだけで差別されなければならないのか、なぜあの上級生は同じアジア人という理由で自分を守ろうとするのか……って。

清田 それこそ知恵熱を出してしまうくらい悩み抜くところがすごいよね。「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」とは息子のノートにあった落書きをブレイディさんが見つけてタイトルに採用したことばなんだけど、この「ちょっとブルー」という部分にこの本のエッセンスが詰まっているような気がした。

小川 このまま永遠に本の話を続けられそうだけど、「エンパシー」の話に戻ると、これはブレイディさんと息子・ケンさんとの会話の中で出てくることばなんだよね。学校の期末試験で「エンパシーとは何か」という問題が出た。それに対して息子は「自分で誰かの靴を履いてみること」と書いた。私と清田くんは今年の冬に演劇ユニット「いいへんじ」が上演した『あなたのくつをはく』という作品に感動して以来、この言葉についてしょっちゅう話していたから、彼の回答を見た瞬間にいろんなものがつながった感覚があった。

清田 めっちゃわかる。俺もあそこで「おおお!」ってなった(笑)。

恋愛には「ニコイチ幻想」があるけれど……

清田 というのもさ、ちょうど同時期に、たまたま『共感する人──ホモ・エンパシクスへ、あなたを変える六つのステップ』(ローマン・クルツナリック/ぷねうま舎)という本を読んでいて、そこでもエンパシーは「他人の靴を履くことをイメージし、その感触をもって世界を歩く」ことだと説明されていたのよ。

小川 この「in someone’s shoes」というのは英語圏では、誰かの立場や状況を表す意味で使われる慣用句だけど、おもしろいのは、ブレイディさんも本書で説明していたように、エンパシーって他人の感情や経験などを理解する“能力”だってことで。

清田 共感って「同じ気持ちになること」というイメージがあるけど、それは「シンパシー」のほうなんだよね。シンパシーは辞書的に「誰かをかわいそうだと思う感情」「ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為」などと説明されていて、エンパシーとは似て非なるものだと述べられている。それを端的に示したブレイディさんのことばを引用してみます。

〈つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業と言えるかもしれない〉

小川 つまりエンパシーとは「その人からは世界がどう見えているか」を想像する行為であり、たとえそれが同意できないものであっても、とにかく理解するためにできるだけ頭を働かせ続けるってことなんだよね。

清田 共感とは「努力」であり「能力」であり「知的作業」であるという指摘にはマジでハッとさせられた。そして本当に本当にその通りで、これこそ恋愛に不可欠なものではないかと思った。「いいへんじ」の舞台にもそれを実感する場面があったよね。ある若い男女のカップルがすれ違いを起こすシーンで。

小川 背の小さい彼女が大柄の男に道すがらでぶつかられて、自分の存在が認識されなかった事実が悲しくて、それが悔しかったと訴えるんだけど、私の解釈だと、彼氏のほうは優しく慰めはするものの、体格差、性差から彼女の人間的な尊厳が傷つけられたという悔しさをイマイチちゃんと理解できていない。そのことにショックを受けた彼女は、とっさにぶかぶかの彼氏の靴を履いて部屋から出ていってしまうんだけど、彼は残された彼女のヒールの付いた小さな靴を履いて追いかける。そのとき初めて、彼女の目線から世界がどう見えているのか、彼氏は身体感覚を持って実感する……というひと幕だった。

清田 そうそう。まさに『あなたのくつをはく』というタイトルを象徴するシーンだった。恋愛には「ニコイチ幻想」というか、他の関係にはない親密さ、例えば「互いの境界線が溶けあって一体化する」みたいな関係を求める部分があると思うんだけど、実際には価値観も経験も習慣も異なる他者同士なわけで、言うなれば「異文化交流」に近いものがあると思うのよ。

小川 わかる。もちろん恋愛相手には甘えてしまうことが多々あるし、相手のことをわかった気になったり、自分のことをわかってくれてると思い込んだりしてしまう。多少のわがままなら許してもらえるだろうって感覚も抱きがちだよね。でもやっぱりそれは幻想で、どんなに近しい関係であってもわかり合えない他者なのだという前提に立って、それでも相手のことを知ろう、わかろうという姿勢がエンパシーの意味するところで、それは恋愛にとても必要なものではないかと私たちは考えている。

「お互い違ったままここにいる」が成り立つためには

清田 もちろんエンパシーは“能力”なわけで、当然それには経験や知識、訓練なんかが必要だろうし、素質みたいなものもあるかもしれない。ブレイディさんの息子は「シティズンシップ・エデュケーション(市民教育)」の試験でエンパシーとは何かを問われていたけど、イギリスでは学校教育の中にその力を養うためのプログラムがあるわけだよね。だから意識すれば簡単にできるものではないと思うけど、エンパシーという感覚をインストールしておくことは恋愛においてもすごく役立つと思う。

小川 そうだよね。私は恋愛にはことばも必要と思う派なので。例えばセックスはとても原始的なコミュニケーションの形だと思うし、ことばを介さずに気持ちを伝え合うこともできる。ただ、私たちは単にオスやメスとして存在しているわけではなく、ジェンダーを含む多様な属性を背負った個人として生きているので、やっぱり話をしていかないことには意思の疎通はとれない。

清田 相手の話を聞くって、シンプルな行為のようでいて結構難しいことだと思うのよ。内容を正確に把握するためには読解力や想像力が必要だし、知識がないと理解できないことも出てくるし、安易にジャッジしないための忍耐力も求められる。相手の語りを促すためには上手に質問するスキルも必要になってくるかもしれない。こういうのもエンパシーに含まれる力ではないだろうか。

小川 小学5年生のとき、母親が仕事でアメリカに行くことになって私もついて行ったんだけど、そのとき初めて、ことばが伝わらないことは苦しいことだって感覚を味わったのね。お店で何かを注文をするときに、親に頼らずに自分で注文したくて英語で一生懸命しゃべるんだけど、「ポテトください」みたいな簡単なことすら伝わらなくて悔し泣きしたんだよね。もともと人見知りで声が小さかったから、話しかけても「Huh(何)?」って返されちゃって。向こうでは当たり前のトーンなのに、私は強めに否定されたように感じて傷ついたそのときの感情は今でもすごくよく覚えていて。今思うと、あれは私にとってことばの問題に意識が芽生えた原体験だったかも。ただ思うのは、エンパシーは単なる気遣いではないということで。

清田 どういうこと?

小川 多様性を重んじる社会では、相手を傷つけないとか、不快な思いをさせないとか、そういうことはもちろん大事だと思う。でも、そのために気をつけて予防線を張りすぎてしまうことがエンパシーなのかなって言うと、それはちょっと違うと私は思っていて。なんと言うか、みんなそれぞれ違っているんだから、批判したりジャッジすることなく、お互い違ったまま対等にここにいる──。それを成立させるために必要なのがエンパシーなんだと思う。だからまあ、とってもやっかいなものでもあるんだけど(笑)。

清田 ブレイディさんも「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」って息子に語りかけてたもんね。でも、たとえ恋人であってもやはり他者なわけで、基本的にわかり合えないことのほうが多い。そもそもこの連載も、「人は同じことばを使っていても同じことを意味しているとは限らない」という問題意識から始まったものだったよね。

小川 ブレイディさんが素晴らしいのは、子どものことをわかった気にならないところだよね。血のつながった親子ですら他者という感覚で、常に注意深く観察していく。その“研究”的なまなざしに大いなる愛を感じました。

清田 親しき仲にもエンパシーあり。って、なんだか適当な締めになっちゃったけど、このことばをインストールしておくと恋愛がよりうまくいくかもってことが伝われば幸いです。もちろん恋愛には「観察とか研究とか言ってないで黙って抱きしめろや!」って部分があるのもまた事実で、そこが難しいところなんだけど……。

小川 黙って抱きしめるって、問題から逃げる常套手段としても使えるからなぁ。それはまた別テーマとして考えてみましょう(笑)。

清田隆之

文筆家

恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。
1980年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。これまで1200人以上の恋バナを聞き集め、「恋愛とジェンダー」をテーマにコラムやラジオなどで発信している。著書に『どうして男は恋人より男友達を優先しがちなのか』(イースト・プレス)、『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)、『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社)、澁谷知美さんとの共編著『どうして男はそうなんだろうか会議 いろいろ語り合って見えてきた「これからの男」のこと』(筑摩書房)がある。近著に『おしゃべりから始める私たちのジェンダー入門~暮らしとメディアのモヤモヤ「言語化」通信~』(朝日出版社)、文庫版『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(双葉社)がある。
イラスト/オザキエミ
https://twitter.com/momoyama_radio

小川知子

ライター

1982年、東京生まれ。上智大学比較文化学部卒業。雑誌を中心に、インタビュー、映画評の執筆、コラムの寄稿、翻訳など行う。共著に『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)がある。
https://www.instagram.com/tomokes216
https://twitter.com/tometomato

中村桃子

イラストレーター

1991年、東京生まれ。桑沢デザイン研究所ヴィジュアルデザイン科卒業。グラフィックデザイン事務所を経てイラストレーターにとして活動。装画、雑誌、音楽、アパレルブランドのテキスタイルなど。作品集に『HEAVEN』がある。
https://www.instagram.com/nakamuramomoko_ill/