11月に千年前の言葉を現代によみがえらせる『千年後の百人一首』を上梓した詩人の最果タヒさん。斬新な音楽、パフォーマンスを生み出し続ける「水曜日のカンパネラ」のコムアイさん。「言葉」と「歌」という異なるフィールドで活躍するお二人に、お互いについて、そして創作の衝動についてお話しいただきました。初対面のお二人のお話、お楽しみください!
その瞬間を表現すること
最果 初めて「水曜日のカンパネラ」を見たとき、コムアイさんが、どう見られたいかを放棄してる感じがして、とにかく気持ちがすっきりしたんです。自分の感覚で喜んで面白がっていい音楽なんだってことを、全身で体験できたんです。
コムアイ 嬉しいです。最果さんも放棄されてますよね。自分の詩がどう読まれるかをいったん手放している。私は、とにかく瞬発力なんです。だからこそ、どういう風に捉えられてもいいと思っていて、理解されないことも多いんだけど、そもそも、人に理解されないと苦しいっていう感覚があんまりなくて、むしろ、お客さんと一体になりすぎると、真新しさがなくなってしまう。だから、この間のツアーでは「すごく近いのに、すごく一人」みたいな演出を心がけたんです。
最果 私は読者の皆さんに自由に解釈してもらうことを大事にしています。ただ、感想をもらえることは嬉しいのですが、そこに自分が合わせにいってしまわないよう、気をつけています。少しでもそっちに傾くと、書いていてすごくつまらないんです。私は、自分で詩を書いて、書いた自分に驚きたいって思うから。だからこそ私も瞬発力を大事にしていて、その瞬間に出てきた一行が、意外なところに収まっていく面白さを目指して書いています。もともと用意されていた場所に言葉が落ち着くことに嫌悪感があるんです。
コムアイ 私、最果さんの詩は横書きのほうが好きなんです。「あ、なんか、よく聞こえるな」って感じがする。あと、白抜きの文字が合いますよね。グラフィックや写真やデザインに詩が組まれるのを嫌う人もいると思いますが、最果さんは他のものに主張を譲っている感じがします。
最果 そうですね、他のものに譲るってことを、全く気にしないんです。今回の『千年後の百人一首』という本では清川あさみさんと百の作品を共作することになったんですが、歴史的な事実というよりも、この歌が詠まれた瞬間を意識したんです。作者が「これを歌にしよう」と思った、そのときの衝動を掴んでから訳すことを心がけました。そうじゃないと、言葉が出てこない気がして。清川さんから来た絵を見て、ようやく掴むことができて、勢いよく書けることもありましたね。
コムアイ 百人一首って、ひとつの歌が短いし、更にその中で意味がかぶっている。今回、一度、元の歌を読んでから、最果さんの現代語訳を読んだんですが、そのかぶりを見つけるようにもう一度元の歌を読みたくなりました。
最果 小野小町の「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」を最初に訳したんですが、掛詞が多く、意味を重ねまくっています。言葉の輪郭をはっきりさせず、いろいろな意味を内包しながら同時進行で進んでいく。誤解を恐れて、意味や意図を明確にして書かれる今の言葉とは、ちょっと違うつくり方だと思います。でも、私は詩を書くとき、いつもそうした意味や意図から剥がれていくこと、なにもかもを黒か白かにわけるような言葉のあり方から逃れることを大事にしていて。だから、詩の言葉なら、当時の言葉の輪郭のあいまいさ、そしてそれによって生じる奥行きを、そのまま今の言葉として書けるかもしれない、と思いました。
コムアイ これだけ掛けるって、結構貪欲ですよね(笑)。逆に、散文詩は行数が決められていないぶん、行数とるならそんだけのものを見せろよ、っていう「行数からの圧」がありますよね。
最果 圧、あります、あります。千年前の人って、恋の駆け引きも出世も、歌の才能で決まった。つまり、言葉に対する信頼とプレッシャーがすごかったはずです。そういう言葉を解体して、今の言葉に換えていくので、言葉単体に対する意識の重さを繰り返し考えましたね。
言葉も歌もみんな自分の形がいい
コムアイ 詠んだ人たちは、千年後に残るかもって考えながら言葉のカードを切ったわけじゃないですもんね。とにかく個人的な言葉、ですよね。
最果 そうなんです。でもそれが逆に落ち着きましたね。その瞬間のために書かれた言葉だからこそ、現代語訳する意味も生まれてくる。
コムアイ 恋愛だけじゃなくて、その歌会でのポジション取りを気にしたり、政治的な意図をこめた歌もあったはず。百人一首の原文から「してやった感」を感じることがあります。うまいこと書いたな、みたいな。自信満々で出したっていう、そのいやらしさがいい。
最果 ここでこう返した機転のよさ、っていう理由で選ばれた歌が結構あって、それは訳すのにとても苦労しました。衝動じゃないじゃん!ってなるから。
コムアイ 私はカンパネラで歌と踊りをやってますが、自分が一番光を放てる瞬間って、実は遊んでるときなんじゃないかと思います。そのお裾分けぐらいの気持ちで表に出ている感覚があるし、ずっとそのバランスで行きたいって思う。アマノウズメが天岩戸の前で素っ裸になって踊ったときって、誰かを楽しませてやろうっていうより、自分が楽しいっていう単純な快楽があったはず。自分の今の瞬間の快楽を優先させないと、いい踊りって出てこないはずだから。
最果 私は、身体を通じて言葉が出ているのを見ると、別物に見えます。私は書くだけで、それを声に出して読んでくれる人がいると、詩がついに完成したと思う。ついに姿を現してくれたかって感動するんです。声としての言葉は、文字と違って手元に残らないし、聞こえてすぐに消えてしまう。だから、文脈の力がそこまで強く発揮されない。そのぶん、聞こえた瞬間の「あ、なんかいい!」が優先されていくような。私はだから、歌詞の言葉が好きだったのかなと思います。10代の頃から歌詞が好きで、逆に文脈のある言葉や小説の言葉が苦手でした。
ただ、やはり「読む」という作業になると、人はどうしても、言葉そのものより、その言葉の奥にある文脈や背景を消費しようとしてしまう。そうやって言葉に接することが多かったからだと思うんですが、それだけのために言葉があるわけじゃない。意味のためだけに言葉があるわけじゃないし、作者の意図を汲むのが「読む」ということでもないように思う。「意味は?」って聞かれても、読んだ人の数だけ意味がある。私にもわからないし、わからないことを一番大事にしている。
SNSのせいだけじゃないとは思うんですけど、何か出来事があったらそれを正確に伝えるために言葉を書くようになって、どんどんみんなの言葉が同じになっていく。でも本当は、言葉って、自分で獲得して、自分と共に生きていくもの。だから、みんな変な形をしている。均一化されていくのはすごく寂しいことです。意味は伝わらないけど、でも、なんだか無性に大事にしたくなるような、そんな言葉を書けたらいいなって。音楽の言葉は、本能に一番近道で迫っていく。考える暇を与えない感じがすごい憧れなんです。
コムアイ 私も最近それに気づきました。音楽は遅いと思ってたけど、速いんですよね。
最果 すごく羨ましい。私は多分、それに憧れたから、詩人になったんだろうなって思っているんです。
☆最果さんの新刊『千年後の百人一首』からコムアイさんがお気に入りの一首を朗読したショートムービーも公開中!