働く私の日常言語学
2022.04.22
Vol.2 臨床心理士・東畑開人さんと語る、言語化することと、心でわかることの関係って?
文/小川知子
協力/清田隆之(「桃山商事」代表)
イラスト/中村桃子
恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表の清田隆之と、『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)の選者も務め、人から話を聞くことを専門とするライターの小川知子が、さまざまなフィールドで活躍する方々と「ことば」について多角的に考えていく連載。
第1回に引き続き、臨床心理士の東畑開人(とうはた・かいと)さんとお話ししました。
心について語れずにいるということ
小川知子(以下小川) 前回では、この3月に新刊『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社)を出版された臨床心理士の東畑開人さんに、物語未満の小さなエピソードにこそ心は宿るというお話をお伺いしました。今回も引き続き「心とことば」をめぐるお話を東畑さんと一緒に語り合っていけたらなと思います。
清田隆之(以下清田) 桃山商事でいろんな人の恋愛相談に耳を傾けていると、「言語化」という行為の重要性を痛感するんですね。それで我々の記事やPodcastでは「気持ちをことばにしてコミュニケーションを取ることが大事だよね」という話によくなるんですが、それに対し、コメント欄やSNSでは「でもそれって言語のリテラシーが高い人だからできることでは?」とか、「常に言語化するのはしんどいよね」という意見を結構いただいたりするんです。
東畑開人(以下東畑) それはそうかもしれないですね。
清田 言語化能力と聞くと、語彙を豊富にもっているとか、素早く的確にフィットすることばを探せる能力がある、というイメージが強いけれど、仮にそういうことが苦手だったとしても、心の内側や他者との間に発生している問題をつかんだり、表現したりすることはできないのかというと、そうじゃないような気もして。東畑さんは、感情について語ることと、言語化能力はどう関係していると思います?
小川 『心はどこへ消えた?』(文藝春秋)でも、カウンセリングに来ている方(クライエント)で、ジムで鍛えていて、自分の状態を商談のプレゼンのように明晰に語るという男性が出てきますよね。
東畑 この本の彼の場合、ことばのリテラシーは高いんです。例えば、家庭の中で起きることに対してもビジネスの言語で語る人っていますよね。
小川 感情の話をしたいのに、ビジネスのような話の運びにしかならないという父親の話を友人から聞いたことがあります。
東畑 上司が部下に対してモチベーションを確認するための面接のように、子どもに接するのもそうですね。子どもとコミュニケーションするためのことばが本当はあるはずなのに、その側面は発育不全になってしまっている。ジムの人の場合、夢の中では「助けてくれ」と叫んでいるのに、それを面接では語れずに苦しんでいる。それが、「語れずにいる」という状態です。
清田 本人としては明晰に語っているつもりだけれど、実際には心の内側は言語化されていない。その語れていない部分が夢となって表れている……。
東畑 この本には子どものクライエントの話も出てきますが、彼らはことばによって自分のことを語ることをまだ十分にはできていません。だから、一緒に戦いごっこをしたり、おたまじゃくしを見に行ったりする。そういった遊びや活動を通して、子どもが自分を表現していく営みは「プレイセラピー」と呼ばれていて、これは案外大人もやっているんじゃないかと思います。例えば、趣味だったり遊びだったりのいろんな営みの中に自分らしさのようなものが込められている。
小川 4歳の姪がいるんですが、お母さんが「お仕事でお泊まりだから帰ってこないけど、おばさんと過ごせる?」と聞くと、頭では理解して「大丈夫!」と平然と返事をするんだけれど、実際、夜になって、母親が目の前にいない現実に気づくと、寂しくなって泣いたりするじゃないですか。そういう姿を見ていると、頭でわかっていることと、心がわかることっていうのは違う水準にあるんだなと。
東畑 そうなんですよ。わざわざことばにしないでも満たされている状態がベースだと思うんですね、人間にとって。でも、ときどき特殊な事情が発生して、どうしてもことばで自分と他者のことを考えざるを得なくなる……ということだと思んですよね。カウンセリングというのは、やっぱり特殊なことをしているなという自覚がある。
清田 確かに、現実に起きていることを逐一ことばで捉えていくなんて絶対できないですもんね。自分も「言語化が大事!」みたいなことを言っているけど、例えばパートナーとの関係にしても、ちょっとしたことでムッとしたりムッとされたりして、放っておけばじきに収まることもあるけど、話し合わなきゃいけないなって瞬間もある……みたいなことを繰り返しているような気がします。
東畑 僕らは、今、他者をすごく恐ろしく感じる時代に生きています。他者って謎なんですよね、何を考えているか、何をするかわからない。前回でもお話ししましたが、だからこそ、抜き差しならない、相手と向き合って関係を確保しなくてはいけない時には、話し合いが必要です。ただ、ことばにすること自体はリスクに満ちてもいる。
小川 心に触れられるリスクということですか?
東畑 ことばって、二人が通じ合っていないことを明るみに出しますからね。そこには痛みがあります。でも、通じ合っていないことがわかることで、じゃあどうしたらいいのかって考えることもできます。
流通する強力なフレーズとのいい関係
清田 東畑さんにぜひ聞いてみたかったテーマがあって、心にまつわることばには「便利なフレーズ」みたいなものがあったりするじゃないですか。この連載でも「自己肯定感」や「メンヘラ」という流行りことばを取り上げたことがあるのですが、わかるようでわからないというか、どこかざっくりしすぎていることばではないかと感じていて。東畑さんは、そういう便利なフレーズが流通していくことをどう思っていますか?
東畑 僕らの業界で言うと、「ストレス」がそうですね(笑)。こういったざっくり語れることばに関して、僕は相反する気持ちがあります。つまり、「ストレスがかかっている」と言ったとしても、何も語ってはいないわけです。ただ、詳細を話すことなく心配してもらうことができるから、心を守るためにはいいんじゃないかなとも思う。しかし、そのまま「ストレス」だけで片づけてしまうと、本当に何がつらいのかがわからないままになってしまう。難しいですよ。考えないほうがいいときもあれば、考えたほうがいいときもあるので。
清田 マジックワードということばもありますが、フレーズの力は強力だから、複雑な感情とか細かなニュアンスとか、それこそ小さな物語はそれによって押し流されてしまいますよね。いろいろあるはずなのに「自己肯定感が低い」で片づけられてしまう、みたいな。
東畑 でも、ことばというのはそういう性質があるとも思うので、ざっくりとしたままで使っていけばいい気もするんです。例えば「ヤングケアラー」(家族の介護やケア、身の回りの世話を担う18歳未満の子ども)ということばは、自分の問題をなんらかの共通項に置いて語ることを可能にしてくれます。すると、ヤングケアラー同士でつながることができます。
小川 内面を語るための共通言語になる。
東畑 そう、流通するものとして。なので、基本的に、僕は流行りことば肯定派です。「ハイリー・センシティブ・パーソン」(非常に感受性が強く敏感な気質をもった人)の頭文字をとったHSPということばも流行ってますね。そういう言葉があるおかげで、自分の苦しさを意識化できることってあると思うんですよね。
小川 ただ、自分をざっくり守りたいときにはいいものだけれど、他人に使うと危険なのが流行りことば、という印象が私にはあるんですよね。
東畑 確かに。「あなたメンヘラだもんね」とか「あの人、HSPだから」とかって使ってしまうのは、かなり問題ですよね。
小川 どんなことばであっても、受け取る人によって認識や反応が全く違う、というのは日々感じているので。
東畑 例えばTwitterの世界だと、140文字以内に収めなくてはいけないので、流行りことばでしか物事を語れないところがある。しかし日常の人間関係では、意外と延々とおしゃべりができるから、そうするとやっぱりざっくりしたことばの内訳の話になってくる。そういうことなのではないかな。
清田 東畑さんは著書『野の医者は笑う』(誠信書房)で占いやスピリチュアルをテーマにされていたじゃないですか。沖縄のヒーリング文化をフィールドワークしながら考察していく本で、臨床心理士としては疑いの目を持ちつつも、実際に人を癒やしたり助けたりしている現実に触れ、東畑さん自身も巻き込まれていく様子がおもしろかったです。自分は占いやスピリチュアルに非科学的なうさん臭さを感じてしまうというか、つい「ふーん」って斜めに見てしまうところがあるので……。
東畑 占い師やヒーラーになった人たちの話を聞いていると、なんだか納得してくるんですよね。突然「天使が現れた」とか言われると確かに疑わしくもなるんだけど、そこに至るまでには壮絶な人生の物語があって、そういう中で「天使が」って言われると、ああ、そうなんだろうな、本当によかった、みたいに感じるわけですよ。人にはそれぞれの事情があるんだなって。
小川 科学的根拠がないものは存在しないと考えてしまうと、すごくつまらなくないですか? スピリチュアルにもいろんな捉え方があると思うので、私はスピリチュアル=うさん臭いというイメージはなくて。幽霊の話もそうだけど、「そんなものいるはずないでしょ」みたいに片づけるより、「あるかもね」と考えるほうがおもしろいと思うんですよ。実際にいるかどうかは正直どうでもいいっちゃいいというか。
清田 ああ、そうか……。二人の話を聞いて、自分は占いやスピリチュアルのことばに嫉妬してるんだなって思いました。流行りことばに対しても同じかも。例えば恋愛相談に乗っているときとかって、相手の話に耳を傾け、エピソードの断片から悩みの核心みたいなものを必死に探そうとするわけですが、結局、「自己肯定感」や「オーラ」みたいなものには敵わない。「引き寄せの法則」とか、最強すぎる(笑)。だから斜に構えることでジェラシーをごまかそうとしていたんだなって気づかされました。
東畑 やはり、ズバッと言うべきときってありますよね。『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』の執筆中に文体のことでとても悩んだんです。あとがきにも書いたけど、悩める人が読んで役に立つ本にするためには、極力シンプルなことばを選び、わかりやすい論理で話を進めていくべきではないかって。若いころと違って、中堅世代になったら、ときにはベタなことを、ズバリ言っていく責任があるんじゃないかな。
小川 確かに、責任感がことばを強化することはありそう。スイス人の知人が、日本語は主語がなくても成立するし、目的語が曖昧でも理解してもらえるから、ヨーロッパの言語に比べるとすごくラク、と話していて。空気を読む文化と切り離せない言語が、ある種、個人を責任から解放していると。異国から見れば、言い切らなさやわかりにくさも美徳として映るわけですよね。でも、我々はときに責任のあるわかりやすいことばも必要と感じる。変化する時代、年齢、場所によって、その都度ちょうどいいことばとの距離やバランスがあるんだなと思うと、ちょっとおもしろいですね。
1983年生まれ。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。京都大学教育学部卒、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。沖縄の精神科クリニックでの勤務、十文字学園女子大学准教授を経て、「白金高輪カウンセリングルーム」主宰。著書に『居るのはつらいよ―ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)、『心はどこへ消えた?』(文藝春秋)など多数。新刊に『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社)がある。
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