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働く私の日常言語学

2022.04.02

Vol.1 臨床心理士・東畑開人さんと語る、ことばと「小さなエピソード」の話(前編)

文/小川知子

協力/清田隆之(「桃山商事」代表)

イラスト/中村桃子

恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表の清田隆之と、『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)の選者も務め、人から話を聞くことを専門とするライターの小川知子が、「ことば」をめぐる恋愛の諸問題について語り合ってきた「恋する私の♡日常言語学」が今回より「働く私の日常言語学」に進化します。さまざまなフィールドで活躍する方々と「ことば」について多角的に考えていく連載です。
第1回は、臨床心理士の東畑開人(とうはた・かいと)さんです。前編後編にわけて、お届けします。

物語未満のエピソードに心は宿る

小川知子(以下小川) この連載ではこれまで「恋愛とことば」をめぐっておしゃべりしてきましたが、今回からテーマを少し広げ、「働く私の日常言語学」というタイトルにリニューアルしました。仕事や生活、人間関係など、人生の様々なシーンでどのようにことばと付き合っていくかについて、引き続き語り合っていけたらなと。

清田隆之(以下清田) ときにはゲストをお呼びし、それぞれの仕事でことばとどう向き合っているのかについてもお聞きできたらと考えていまして、さっそく今回は、昨年エッセイ集『心はどこへ消えた?』(文藝春秋)を、そしてこの3月に新刊『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社)を出版された臨床心理士の東畑開人さんをお招きしました。

東畑開人(以下東畑) よろしくお願いします。

清田 東畑さんの著書では、デイケアやカウンセリングルームなどで見聞きしてきたエピソードを大事にされてるじゃないですか。この連載でも日常の何気ないことばに着目していきたいと思っているのですが、小さすぎる物語、文学的断片、物語未満のエピソード……そういうものに心は宿ると書かれていて、とてもグッときました。

東畑 カウンセリングに来られる方(クライエント)って、本人も何で今この話をしているのだろうとわからなくなるときがあるんですよ。もちろん、僕にもわからないときも沢山あるのですが、ときどきわかるときもある。例えば「コンビニの店員さんがすごいぶっきらぼうだった」みたいな物語未満のエピソードが語られたとします。よくわからない話ですよね。でも、そこから色々と連想された話を聞く中で、ああ、そうか「こうやって突然、親がぶっきらぼうになることにこの人は怯えていたんだ」と分かってくる。過去の関係と重なって見えてくると、コンビニの話がひとつの物語に見えてくるわけです。そういうとき、心というものに少し触れたような感じがします。

小川 心を感じるまでにはやっぱり時間が必要というか、「こことここがこうつながってる!」みたいに、こじつけてわかった気になっちゃいけないと意識するところもあるんですかね?

東畑 なんというか、こじつけと意味のあるつながりって、違いがあるようでないんですけど、結局のところはその話が盛り上がるとやっぱ意味があったんだなと思うわけですよ。で、盛り上がらなかったら「違ったんだな、こじつけだったな」って思います。

小川 なるほど、盛り上がるか否かがポイントなんですね。

東畑 熱量がこもるかですよね。カウンセリングは不思議な営みです。クライエントと週1回50分話をするわけですが、「○曜日のこの時間はカウンセリングに行く」って生活サイクルの一部になっているのも重要です。定期的にしゃべる場所があるってだけで基本的に心を支える意味があると思うんです。ただ、それだけしょっちゅう会っていると、何も話すことがないときもあります。そんなときに「ここに来る意味ないじゃん」とクライエントは言う。これはこれで熱量のこもった話になります。

小川 というと?

東畑 つまり、カウンセリングに対して不満を抱いてるわけですよね。「役に立ってない」とか「わかってくれない」とか、率直にものを申している。基本的にクライエントは自分の話をしに来ていて、僕はそれを第三者として聞いてるわけですが、僕はその時はもう第三者じゃない。ふと“第二者”になってしまう瞬間がある。ドラマを見ていたつもりが自分もドラマの登場人物になっているわけです。

信頼や関係性を支えてくれるものがない時代に

清田 思えば『心はどこへ消えた?』(文藝春秋)でも“勝負所”と呼んでいる瞬間のことが描かれていますよね。東畑さんに怒りをぶつけてきたクライエントに対し、「あなたが感じているのはこういうことですか?」と切り込んでいく場面が印象的でした。

東畑 たとえば、怒りや傷つきなどの、まだことばになっていない気持ちは、行動や態度で示すしかありません。それをきちんと受け取って、ことばにするのも心理士の仕事だと思います。もちろん、そのときのことばの精密さも大事ではあるけど、それ以上に「自分とあなたの間で起こっていること」について言及するということ自体に意味があるように思います。これは親密な関係でよく起こることです。「今、私があなたを怒らせたのかな?」って問いかけることで、話が一気に展開する。

清田 それって簡単なことじゃないですよね。小川さんも「むむ」って感じたときに切り込んでいくことが多いじゃない? ここで起きている問題について話しましょうって、俺も何度か経験があるけれど。

小川 違和感を放置できないタイプで……それでびっくりされてしまうことも(笑)。でもそこを言及すると、責められてると感じて身構えさせてしまう場合が多く、ことばの選び方は難しいなって。

東畑 そうですよね。やっぱり傷つきやすい部分に触れることばだから、最大限に配慮する必要があります。ですから、ゆっくり喋る。反射的に言葉を発さず、吟味する。そうやってことばを練ってる時間って大事だと思うんですよ。「これだと相手を傷つけるのではないか」って考えてること自体が相手のことを考える時間なわけで。

清田 自分は切り込んでいくのが苦手なので、小川さんを見てていつもすごいなって思うし、東畑さんの勝負所の場面を読んでるときもドキドキしました。

小川 もっとも、必ずしも全員としなきゃいけない話ではないと思う。私も親しい人には向けてしまうけれど、誰かれ構わず切り込んでいくわけではないというか。

東畑 ぼくもそう思います。日常生活においては重要な人とだけすればいい話です。ただ、抜き差しならないことが起きているときは、やっぱりきちんと話をするべきです。つまり向き合ってしゃべらないと関係が確保できなくなっているときですね。

清田 ああ……大事だけど怖い瞬間でもありますよね。

東畑 確かに(笑)。個人が浮き上がっちゃうような感じがあるかもしれない。今って信頼や関係性を支えてくれるものがない時代だと思うんですよ。つまり、誰も関係性を強制できないからこそ、「あなたと私が一緒に居る意味って何?」っていうのが常に問われていく。

小川 問題が起きてるときってドラマティックになってしまうというか、コントロールできない感情があるから、冷静に話し合いをしようと思っても難しいですよね。その場では感情的なやりとりになってしまったとしても、起こったことを後で振り返って考えて、ことばにするということが私にとってすごく意味があるかも。

東畑 後から来るものですよね、ことばって。コミュニケーションを取りながら事前に合意を得ていくというよりも、なんかやばいことが起きていると気づき、それから何が起きているのだろうか、とリフレクション(内省)していく。これは広義の意味で文学的なことなんじゃないかと思います。振り返って、捉え直す作業ですから。

人生が私小説的に浮かび上がってくる瞬間

清田 『心はどこへ消えた?』に中学受験の話があったじゃないですか。第一志望に落ちてしまった東畑さんは、中学生になってまったく勉強ができなくなってしまう。常に頭がぼーっとしていて、自己嫌悪を募らせ、山田詠美の『ぼくは勉強ができない』を読んで絶望を深めていた自分を「あれはやはり『うつ』だった」と振り返っていました。あれを読んで、子どもの頃の記憶がいろいろよみがえってきて。

小川 清田くんも確か、中学受験をして中高一貫の男子校に行ったんだよね。

清田 お母さん(母親)がかなり過干渉なタイプで、俺をお坊ちゃま学校に通わせたいってのが露骨にあって。いつもラルフ ローレンの服を着せられ、「立教中学を目指せ」みたいな。結局そこは落ちてしまったんだけど、振り返ると小6から中3くらいまでメンタルがかなり荒れ気味だったように思います。自分の場合は「いたずらに熱を上げる」という感じで、針金を突っ込んで教室のコンセントを壊したり、友達の背中にエロ本のページを貼りつけたり……。

小川 かなり迷惑な行為ではあるけれど、お母さんへの反抗というか、フラストレーションがあったんだね。

清田 当時の自分はそのことに気づいてなくて、勉強しなきゃ、私立に行かなきゃって思ってたし、中学生になってからも「滑り止めで入った学校なんだしいい成績を取らねば!」とか思い込んでいて。まったく勉強できず、結局は下位を低迷していたんだけど。

小川 親の期待に応えなきゃと思ってたんだ。

東畑 子どもからするとそれが「普通」なんですよね。変なことが起きていたとしても、気づかないまま親のノリに巻き込まれていくのが子どもです。しかも大人になってからもそのおかしさを語るのがとても難しいわけです。自分の中でも「あれは変だった」となかなか思えないから。そういうのがサイコセラピーマターだと思うんです。

清田 母親の過干渉といたずらに熱を上げていたことをつなげて考えたことは今まで不思議となかったです。

東畑 いたずらしている清田少年がいたはずなんだけど、それが公的な清田史からは排除されているんですよ。位置づけられない浮いたエピソードとしてある。なぜかというと、親なり先生なりまわりの大人がきちんと「清田に何かが起きている」と扱ってくれなかったからですね。これはつまり、清田さんの苦しいところが浮いたままになってるという話で、これこそが「心」だと思うんです。裏の歴史みたいな。カウンセリングをしていて感動するのは、そういう風に浮いてた話が「俺はあのときからそうだった」って自分史の中に組み入れられるときですね。清田さんの新刊『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社)に出てくる一般男性の話もそうだと思うんです。語られざる、聞き手のいない物語があそこでは語られている。

小川 私も東畑さんの本を読みながらいろいろよみがえりました。「私が『かもしれない』って言ってるときは『違う』って言ってるの! なんでわかってくれないの!」と東畑さんに怒鳴った女性の話とか、ああ、そういうときってすごくあるなって思いました。やっぱりディテールなんですよね。みんなが小さなエピソードを語ることによって同じような思いに気づけたりということが多々発生していく。それが、人生が私小説的に浮かび上がってくるってことなのかもって。

清田 そういえば、壊した教室の電源を電器屋であるお父さんが修理しに来たこともあったな……。今の今まで忘れてました。

東畑 すごい、それは物語ですね。まさに文学だ(笑)。

*後編につづく

東畑開人(とうはた・かいと)
1983年生まれ。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。京都大学教育学部卒、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。沖縄の精神科クリニックでの勤務、十文字学園女子大学准教授を経て、「白金高輪カウンセリングルーム」主宰。著書に『居るのはつらいよ―ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)、『心はどこへ消えた?』(文藝春秋)など多数。新刊に『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社)がある。
https://twitter.com/ktowhata

清田隆之

文筆家

恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。
1980年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。これまで1200人以上の恋バナを聞き集め、「恋愛とジェンダー」をテーマにコラムやラジオなどで発信している。著書に『どうして男は恋人より男友達を優先しがちなのか』(イースト・プレス)、『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)、『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社)、澁谷知美さんとの共編著『どうして男はそうなんだろうか会議 いろいろ語り合って見えてきた「これからの男」のこと』(筑摩書房)がある。近著に『おしゃべりから始める私たちのジェンダー入門~暮らしとメディアのモヤモヤ「言語化」通信~』(朝日出版社)、文庫版『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(双葉社)がある。
イラスト/オザキエミ
https://twitter.com/momoyama_radio

小川知子

ライター

1982年、東京生まれ。上智大学比較文化学部卒業。雑誌を中心に、インタビュー、映画評の執筆、コラムの寄稿、翻訳など行う。共著に『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)がある。
https://www.instagram.com/tomokes216
https://twitter.com/tometomato

中村桃子

イラストレーター

1991年、東京生まれ。桑沢デザイン研究所ヴィジュアルデザイン科卒業。グラフィックデザイン事務所を経てイラストレーターにとして活動。装画、雑誌、音楽、アパレルブランドのテキスタイルなど。作品集に『HEAVEN』がある。
https://www.instagram.com/nakamuramomoko_ill/