森岡書店代表の森岡督行さんが、銀座の過去、現在、そして未来をつなげる新しい物語です。
時の人々が集い、数々のドラマが生まれた銀座には、今もその香りが漂っています。1964年頃に銀座を撮り続けていた写真家・伊藤昊さんの写真とともに、銀座の街を旅してみましょう。
現代銀座考 : XIV 中村活字の名刺
先日、東銀座(旧町名は木挽町)の中村活字(*)で名刺をつくってもらいました。
中村活字は、店内に「中村活字百周年」という書を掲げていますが、実際にはもっと古く、1910年(明治43年)の創業です。この年は、日本初の飛行実験が成功した年でもあり、新しいものが流入する銀座には、機械が明るい未来をつくるというマシンエイジ到来の雰囲気が漂っていたことでしょう。中村活字の棚にぎっしり詰まった活字と重厚な印刷機を見ると、その時代の高揚感をいまでも感じることができます。往時にタイムスリップしたような気にもなります。
「中村活字の名刺を使っていると出世する」という伝説があります。ある人は社長に、ある人は希代のカメラマンに、或いはデザイナーに。この説は、自分のところにも、飲み会などを通して、しっかりと伝わってきました。「銀座」で働いて6年目、いつかは自分も中村活字で名刺をと思っていましたが、念願かなって、ようやくその日が来ました。
とはいっても、中村活字と森岡書店は徒歩3分くらいの距離。社長の中村明久さんとは、よく往来で挨拶を交わしていました。中村さんはいつも朗らかな笑顔で話をしてくれます。成瀬巳喜男監督の『秋立ちぬ』(1960年公開)を教えてくれたのも中村さんでした。この映画の舞台になっている八百屋は、なんと、中村活字店の目の前にある設定になっています。
中村さんはこの日も笑顔で迎えてくれて、早速、名刺のレイアウトや紙質の相談から始まりました。名刺づくりは、小さな金属の文字と、重厚な機械の操作の組み合わせです。今回、初めて工程を見学させてもらいましたが、そのひとつひとつが、手仕事以外のなにものでもないことがわかりました。おそらく印刷機の力加減ひとつで仕上がりが違ってくるでしょう。人によって好みがありますが、印刷の表面がボコボコにならず、フラットになっているのが美しいとされます。中村さんの朗らかな笑顔の背後には、繊細な手仕事がありました。
紙をあまり使わないようにしようという意見が、昨今、気候変動への対応として聞かれます。確かに森林保全のことを考えれば、名刺も本も、他の媒体に変わってしかるべきでしょう。でも中村活字の価値は、単に名刺を製造するというだけではなく、銀座の路地裏を歩いて活字の金属の山に触れることや、カウンターで中村さんと対話することにあります。たとえば、店内の法被に印字されている丸Tについてたずねてみてはどうでしょうか?
この豊かさは、銀座の文化として、ずっと続いてほしいです。
中村さんのつくった名刺には、朗らかな人柄と丁寧な仕事が宿っています。「中村活字の名刺を使っていると出世する」というのは、名刺の彼方に、そのような中村さんの姿を、ときどき思い出すからではないでしょうか。自分も中村さんのように仕事をしたいと思います。
中央区銀座2-13-7