森岡書店代表の森岡督行さんが、銀座の過去、現在、そして未来をつなげる新しい物語です。
時の人々が集い、数々のドラマが生まれた銀座には、今もその香りが漂っています。1964年頃に銀座を撮り続けていた写真家・伊藤昊さんの写真とともに、銀座の街を旅してみましょう。
Ⅸ 1600年頃の銀座
緊急事態宣言が発令されて1ヶ月がたった今年5月、地下鉄から出て銀座4丁目交差点に上がると、風が吹いて、ふと潮の香りがしました。そんなことは初めてだったので、気のせいかと思いました。でも、後日、ある方にそれを話すと、その方も銀座7丁目で「潮の香りがした」とのこと。地形図を見ると、もともと銀座は、江戸前島という半島だから、潮の香りがしても不思議ではなく、むしろ、それが本来の姿なのかもしれません。周囲の埋め立ては、天正18年(1590年)頃の家康入城とともに始まったといいます。そこで、もし江戸時代初期に、銀座4丁目交差点の場所に立ったとしたら、どんな風景が見えたかを想像してみました。
現在、銀座4丁目交差点から海を見ることはできませんが、寛永9年(1632年)刊とされる「武州豊嶋郡江戸庄図」を見ると、現在の三原橋付近から先が海でした(三原橋の橋自体はまだ存在していません)。そうすると、この方向を見れば、江戸(えど)湊(みなと)の水平線が見えたと考えられます。
有楽町のほうに目を移すと、「武州豊嶋郡江戸庄図」では、すでに有楽町界隈は陸地になっていて、江戸城の数寄屋橋門と堀があります。調べてみると、有楽町付近の埋め立てが実施されたのは文禄元年(159年)。それ以前は、日比谷入江の浅瀬だったので、こちら側にも海面が見えたということになります。その先には富士山も見えたでしょう。
『銀座を歩く』(岡本哲志/講談社文庫)には、江戸時代の銀座通りについて、以下の記述があります。「新橋側を見ると何が見えたかといえば、増上寺の大屋根である。銀座通りの軸が増上寺近くの小山をポイントにつくられた」。調べてみると、増上寺は、平河町付近から、日比谷を経て、慶長3年(1598年)に家康によって現在地の芝へ移されました。当時、新橋のほうには、増上寺の大屋根が見えていたのです。増上寺近くの小山とはどこなのか地図をあたってみましたが、はっきりしませんでした。愛宕山はやや西にずれています。
では京橋のほうには何が見えていたのでしょう。現在は、LIXILの大きな看板が視界に入ります。戦前期の絵ハガキや写真を見ると、第一相互館の赤レンガのビルがアイストップ(*)になっています。すなわち、現在の京橋3丁目の通り側にある建物が、この方向の風景を左右します。そこで、また寛永9年(1632年)刊とされる「武州豊嶋郡江戸庄図」見ると……。この場所に具体的に何があったかは明記されていません。次に、宝永年間(1704 〜 1711年)に発行された「宝永御江戸縮図」を見ると……。「炭丁」という地名が明記されていました。地名からすると、当時、京橋3丁目には、炭を製造したり、販売する建物があったのかもしれません。もしそうだったなら、4丁目交差点の場所からは、時折、炭を焼く煙が見えた時代があったということでしょう。もっとも、高速道路がかかるまでは、ずっと、橋としての「京橋」が見えていたはずです。
このように、緊急事態宣言は、潮の香りだけでなく、銀座4丁目交差点から四方に広がるイメージも運んできました。