写真をとおして「ものを見ること」を考察する、写真家・細倉真弓さんによるエッセー、第八回をお送りします。他者にとっての自分を認識するのが顔であるとするなら、自分にとっての自分はいったい何なのか。物を、物語を内包する存在として、あるいはただの物質として、目を凝らすことで奥から見えることとは。
Vol.08 見えないもの見えるもの
私は手の写真が好きだ。
ひとつ目はポートレートとして。ふたつ目はただただ眺めるしかない物質としての手が。
そのふたつの存在が混在して目の前にあるのが手だと思っている。手、と何回も書いているとそろそろ手という文字のゲシュタルト崩壊も近い気がするけれどとりあえず今目の前にある自分の左手を見てみる。この文章を書いている、キーボードをたたく手を止めてなんとなく自然に見えるようにMacBookの上に手のひらを下に向けて置かれた手。小指はS、薬指はE、中指はR、人差し指はFとGの間、そして親指はスペースキーの少し下あたりに置かれた手。
右手も見てみる。右手の方が左手よりも少しだけ肉厚でがっしりとしている、利き手だから。そして右手の甲には自分以外はわからないようなうっすらとした白斑がある。右手はMacBookのトラックパッド上をくるくるしていたけれど、改めてまじまじと両手を見てみると「自分の手だな」と思う。両手の甲に浮き出た血管は浮かび上がり方が左右対称じゃないんだな、などなど。
そんなふうに実在をすぐに確かめられるのも手のいいところで、赤ちゃんが目の前にある自分の手を自分の身体の一部と認識する瞬間を想像してみる。自分に身体があるということを「わかる」瞬間というのはどんなだったんだろうか、そして目の前にいつもあったよくわからない(手と呼ばれる)塊が自分の身体の一部だと気づいたときは。もう忘れてしまったけれど、そんなときでも驚きと一緒に妙に納得もするような、手とはそういう存在に思える。自分にとって自分の手というのは自分の顔を認識するよりも先に自分として存在していた部位、とも言えるかもしれない。
ポートレートというと普通はある人物の顔が写った肖像写真を指すけれど、それは顔というものが一番その人らしさが表面に表れている部分だとみなされているからだ。しかし、鏡や写真というものがなければ自分の顔というものが自分ではわからない状況であれば、自分が「自分だ」と一番親しみを感じるのは顔ではなく手なのではないかとも思う。顔を撮られるときのような面倒くさい自意識がむだに表れないのも手のいいところだ。顔が他者にとっての自分であるなら手は自分にとっての自分であるとも言える。
そんなふうに手を自分の内面の表れとして見ることと同時に、物質としての手が同じ佇まいで、でも物語を読み込むためではなく、無限の情報をもつ物質としてただ見ることしかできないように目の前に存在している。手のひらをじっと見てみる。手は軽く開かれていて手のひらを左右に走る大きなシワ、それよりも細かな手のひらの動きにそってできたシワ、そしてさらに小さな肌の肌理(きめ)。指の先端には指紋があり、指に沿ってゆるやかな楕円が何重にもなっているけれど、指の下の部分に目を移すと縦線と横線の細かなシワがグリッド状に指にはりつけられており、(デジタル写真の最小単位である)ピクセルで指が描かれたようにも見える。手の甲では肌の肌理がより見やすい。小さな三角形のような単位が無数に手の甲に広がり肌ができている。この小さな単位がその上の少し大きな単位を作り、そのまた大きな単位へと続き手という形がつくられているのを見る。
これは先ほどの、手をポートレートとして見るのと似ていて違う。ポートレートとしての手を見るとき、手のシワや質感は生きてきた人生や仕事、生活を想像させるし、爪の状態、怪我の有無などからその人がどういった性格であるのかということを読みとろうとする。
けれどただただ物質として手を眺めるというのは、見えているものの奥から見えていない内面を読みとろうとすることではない。単純に目で見えたものを見えたものとして見ること。目を凝らして手の甲の肌理のひとつひとつを眺めて、その無数にあるひとつずつがそれぞれ少しずつ違う形をしているということに感心したりすること。見えているもの、といったけれど、この肌理のひとつひとつの先を遡っていけば肉眼では見ることのできない細胞や核があるのかとも思う。見えない内面を想像することと見えない細胞のひとつひとつを想像することはどう違うのか。
もう一度自分の右手を眺めてみる。
よく見慣れた自分の手だと思う。それと同時に見ても見ても見尽くすことができない細部が詰まった塊だなとも思う。こんなに見慣れているのに、見たことのない細部をいつでも見つけることができる。だから私は手の写真が好きだ。