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まぶたの裏、表

2023.08.18

まぶたの裏、表 Vol.09 記憶の上書き保存

文・写真/細倉 真弓

写真をとおして「ものを見ること」を考察する、写真家・細倉真弓さんによるエッセー、第九回をお送りします。自分の頭の中に残る記憶と動画や写真として残る記録。その二つの違いについて考えてみました。

 

Vol.09 記憶の上書き保存

ある出来事を思い出すときに脳の中に思い描くイメージというものがあると思う。

例えば、2ヶ月ほど前に友人とあんみつを食べに行ったときの記憶。あんみつ屋さんの前で待ち合わせをするところから始まって中に入って、筆で書かれた和風のメニューをめくり、オーダーする。しばらく待ってあんみつが届きひとしきり写真などを撮った後、あんこが美味しいという話から始まりどうでもいいがそのときの私たちには重要な最近の出来事たちを話した。この一連のやりとりはまだそのときからあまり時間が経っていないこともあって比較的スムーズに思い出せる。脳内再生されるのは重要な部分がいい感じに編集された動画としてなのだが、その脳内動画は細部の再現率はかなり粗い。がんばって思い出してみようとしても自分の服装や店内の様子、会話の中の友人の細かい表情などは初期AIが描いた絵みたいに混濁していてはっきりとしない。そんな中で鮮明に思い出せるのはあんみつに手を添えてこちらを見て笑っている友人の姿だ。なぜかというとその瞬間の写真を撮ったから。そしてその写真を何回か見なおしたのでそのポーズや表情までかなり鮮明に思い出すことができる。そのときの脳内動画を再生してみてもあんみつに手を添える友人を思い出す瞬間は動画ではなく静止画だった。

時間をもう少しさかのぼって3年前くらいだとどうなるだろうかと、別の例を考えてみる。友人たちと近所の砂防ダムへ遊びに行ったときのことを試しに思い出してみたい。3年も経っていると細部のディテールはかなり曖昧だ。自転車で向かったのだけれどそのとき友人から借りた自転車の色や形は一切思い出せないし、ダムに到着しても水があまりなく白い砂の上をウロウロと歩き回ったことはぼんやりと覚えているけれど、そこで交わした会話やどれくらいそこにいたか、水の温度なんかはほぼ覚えていない。脳内再生の動画も途切れ途切れで、タイムラインを無視した3秒くらいずつの短い断片をいくつかほんとうにぼんやりと思い出せるだけだ。そんなぼんやりとした記憶の霧が一部分だけ晴れてはっきりと思い出せるのは、水の近くで裸足になりジーンズの裾をまくり上げようと片足立ちになっている私の姿だった。ジーンズと薄い黄色のTシャツを着ている。私の右奥には友人の一人が目を閉じて恍惚の表情で空のほうへ顔を向けている。今自分のiPhoneをさかのぼればこの写真をすぐに確認することができるし、実際にこの写真は3年の間に何回も見ているのでこの瞬間だけは細かなところまで思い出すことができる。今となっては私にとってこのときの砂防ダムの記憶はたった1枚のこの写真とそれをとりまくモヤモヤとした断片のあつまりになっていると言える。

さらに3歳の七五三参りのことを思い出してみる。写真では八坂神社の前で私を抱きかかえた父親、その左横にいとこが二人並んで立っている。下のいとこはなぜか単1電池二つをひもで結びズボンのベルトループからぶら下げて満面の笑みで写っている。これくらい前になると覚えているのは残された写真のイメージだけでその画像以外に思い出せる記憶というものが一切ない。写真に写っている私は眉間にしわを寄せてやや不機嫌そうだけれど、いとこが腰からぶら下げた単1電池がおかしくて私はこの写真が好きだ。

こう考えてみると、ある出来事を思い出すときに思い描くイメージというのは、果たして自分の記憶の中から思い出されたイメージなのか、それとも写真に記録されたそのイメージを思い出したものなのかわからなくなってくる。写真に残っていることも実際に起こったこと(今のところそういうことになっている)なのだから記憶の一部ということなのでは、とも言えるしそもそも記録するということは忘れてしまうことへの抵抗でもあるので写真によって記憶が定着するということはその役目を果たしているということなのだけれど。
写真や動画が(記憶のような)記録として自分の身体の外部に持ち出され、それをもう一度見るときには写真の中の時間とそれを見ている瞬間との時間のズレが起こる。このズレは決定的で写真や動画を見ている私たちは、もうその写真や動画の中の私たちではなく、その写真を見ることによって新しく記憶を上書き保存している。それを何度も繰り返すことで記録された写真や動画の瞬間はハイライトのように記憶の中で浮かび上がってくる。そしてその新たに記憶された写真や動画の記憶もまた時間によって薄れていき……。その繰り返しがまた続いていく。
余談として動画で記録されたものをわざわざまたスクリーンショットして静止画にするという欲望はなんなんだろうと思っていたけれど、体感10秒以上の動画は圧縮して記憶するには長すぎるからだろうと思う。動画の中のさらにハイライトとしてのスクリーンショット。
ともあれ写真や動画という記憶によく似た記録が、身体の外に持ち出され、またそれを記憶として取り込んでいくその循環の強度はどんどん増しているなとiPhoneのカメラロールをスクロールしていると思う。ここに写っていないものたちは今どこにいるんだろうかなと。

細倉 真弓

写真家

東京/京都在住
触覚的な視覚を軸に、身体や性、人と人工物、有機物と無機物など、移り変わっていく境界線を写真と映像で扱う。立命館大学文学部、及び日本大学芸術学部写真学科卒業。写真集に「NEW SKIN」(2020年、MACK)、「Jubilee」(2017年、artbeat publishers)、「transparency is the new mystery」(2016年、MACK)など。
http://hosokuramayumi.com