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まぶたの裏、表

2023.10.16

まぶたの裏、表 Vol.11 待機状態と起動状態

文・写真/細倉 真弓

写真をとおして「ものを見ること」を考察する、写真家・細倉真弓さんによるエッセー、第十一回をお送りします。日常でふと訪れる心に記憶したい瞬間。その瞬間をただ受動的に待つのではなく、ほんのすこし心持ちと視点を変えるだけで出会うことができる、いつもと異なる新しい世界や発見とは。

 

Vol.11 待機状態と起動状態

最近、といっても半年くらいは経っているのだけれど、新しくカメラを買った。
今まで使っていたカメラは一眼レフのすこし大きくて重たいカメラだった。この「すこし」というのが厄介で、それは本当にちょっとした「すこし」なのだ。写真を撮っているときは気にならないのだけれど、カバンの中にずっと入っているとじんわりと重いなと思う程度というか、持って出たはいいけれど何も撮らずに帰ってきたときを想像するとなんだか損をしたような気持ちになる重さというか、じわじわとした「すこし」の大きさと重さ。ちょっと遊びに出かけるときにこのちょっとした大きさや重さというのが家の外にカメラを持っていくか、それとも置いていくかという判断にかなり大きな影響を与える。そんなことを数年繰り返しているうちに家を出る前カメラを持っていくか否かの決断タイムが煩わしくなってくる。どうしてこんなささいな、それでいて決定的な決断を毎日しなければいけないのかと。「すこし」を気にせず強制的に毎日持っていくことにすればいいだけなのだが、以前使っていたカメラはそう決断するには本当にほんの「すこし」だけ重かったのだ。けれど「今日は荷物も多いし外で撮りたいものに出会わない気がするからカメラは置いていこうかな」という判断をした日に限って思ってもみない出来事や人に出会ってしまって「どうして家を出るときにカメラを置いてきてしまったのか」という後悔をすることになる。念のためiPhoneでは撮るのだけれどそれによって後悔が薄まることはない。
結局後悔の頻度を下げるにはどうすればいいかといえば「すこし」の重さや大きさをその「すこし」の分だけ軽く小さくすればいい、とはたと気づいたのが半年前で、そう気づいてしまうとあとは簡単で私は「すこし」軽く小さなカメラを買った。
この新しいカメラは本当にちょうどいい大きさと重さで毎日の「カメラを持っていくか否か」の決断を私に迫ることがないし、カバンの中で眠っていても私を憂鬱な気持ちにさせない。小さなプレッシャーから解放された私は家の外での予期せぬ出来事を素直に喜べるようになった。いつでもなんでも誰でも私の目の前に現れてもいいんだよと。

しかしカメラを日常的に持ち歩くようになって気づいたのは最初に予想していたのとはすこし違う感情だった。というか本当はうっすら気づいていたけれど考えないようにしていたことを再確認したとも言える。以前の私は写真を撮る瞬間というのは何かや誰かに出会ったから写真を撮るのだと思っていて、それは「決定的瞬間」みたいな写真的な瞬間というか、先に出来事があってそれを面白いと思った私が写真を撮るのだと思っていたのだ。これは、何かを目の前でつくるというよりは出会いを待つ態度と言えるのだろうか。そしてその瞬間が訪れたときにカメラを持っていなければそのことを悔いていた。
カメラを持ち歩くようになって思ったことは、確かにその来たるべき「瞬間」にカメラを持っていれば写真を撮ることができるのだけれど、そのことは予想通りというかそのためにカメラを買ったのでそうなってもらわないと困るわけでそこには驚きがなかった。それよりも自分が驚いたのはどんなにカメラを持ち歩いて、いつでも取り出せるように毎日カバンの中にカメラを入れていたとしても、その状態では自分自身の待機状態は解除されないということだった。よりストレートに言えばカメラをカバンから取り出してレンズキャップを外して右手にカメラを持って初めて自分が起動する。待機状態と起動状態、その2つのモードの違いが目の前にある撮るものに反射して返ってくる、そのことに一番驚いたのだ。

写真を撮り始めて最初の5年くらいは何かが起こるのを待つ態度でカメラを持っていた(①)。その後しばらくしてカメラを持ち歩くことが苦痛になり(そのとき使っていたカメラは「すこし」どころか本当に重くて大きかった)、写真を撮る目的がはっきりしているとき以外はカメラを持ち歩かなくなった(②)。そしてここ数年くらいは目的がはっきりし過ぎている撮影に飽きてきてカメラを持ち歩きたいとまた思うようになった(③)。
こう書いてしまうと最初の段階に戻っただけのようなのだが、今回カメラを日常的に持ち歩くことになってはっきりしたことがある。重要なのはカメラを持ち歩くことではなく、自分をどれだけ起動状態に置いておけるかということだった。何かを待つためにカメラを持ち歩くのではなく、自分が起動状態であればたいしたことが何も起こらなくても目の前のものを撮ることができるのだ。①=③ではない。①待機状態をベースに起動状態がある身体から、②起動状態を無理やりつくることを通過して、③起動状態と待機状態の逆転に至る、みたいな感じだろうか。

試しにカメラをカバンに入れたままいつもの道を歩いてみると、そこは見慣れた道路に看板、道路標識、いつもの家、線路沿いの草むら、特に心惹かれるものはなくカバンからカメラを取り出すこともなくそのまま通りすぎてしまう。
同じ道をカメラをカバンから取り出しレンズキャップを外し右手に構えて歩いてみる。自分を起動状態にして同じ道を歩くとき、自分の目の使い方が変わるのがわかる。いつもの道路に落ちているゴミ、看板のグラフィックの隅の擦れ、何かがぶつかって曲がってしまった道路標識のうねった形、近所の家の軒先にある犬の置物、草むらの中にある無限のディテール、何かを待つ必要なんて一切なく目にうつる全部が全部面白く無限に写真を撮ることができる。すごい。
こちらの状態は目の前のものに反射してもう一度こちらに返ってくる。
つまり何かが起こることを待ってカメラを持ち歩くのではなく、カメラを構えれば何かが起こるということでしかなかったわけだ。
こんな単純な逆説に気づくのに結構かかったなと思いながらとりあえずカメラは構えてみたい。撮った写真そのものに大きな意味はなくともその中にあるささいな面白さのほうをこそ考えてみたいと最近は思う。

細倉 真弓

写真家

東京/京都在住
触覚的な視覚を軸に、身体や性、人と人工物、有機物と無機物など、移り変わっていく境界線を写真と映像で扱う。立命館大学文学部、及び日本大学芸術学部写真学科卒業。写真集に「NEW SKIN」(2020年、MACK)、「Jubilee」(2017年、artbeat publishers)、「transparency is the new mystery」(2016年、MACK)など。
http://hosokuramayumi.com