写真をとおして「ものを見ること」を考察する、写真家・細倉真弓さんによるエッセー、第四回をお送りします。日常のなかに溶けこむ反射。カメラや人間の目もその反射を利用し、ものをイメージします。反射が織りなして「見える世界」について考えてみましょう。
Vol.04 リフレクション/ガラス
歩いていていつも目を奪われるものがある。反射。
町の中を歩いているといたるところにガラスがある。ガラスは透明で向こう側が透けて見えるのと同時に角度によっていろいろなものが映り込んではこちらとあちらの中間地点のような、一枚の大きなスクリーンのようでもある。透明であると同時に、その同じ表面に違うイメージが混在している。そして私たちは水面のように水平にその像を眺めるのではなく垂直に屹立(きつりつ)した像と相対することになる。
具体的な訓練
その1
特にやることのないお昼過ぎにぷらぷらと散歩に出かけてみる。近所の住宅街を特にどこに行くと決めずに気の向くほうに歩いていく。光が綺麗だったり、行ってみたことがない方向だったり、水のあるほうだったりとその日その日で歩く道は変わるけれどとにかく何かしら気になるもののありそうなほうへと歩いていく。
今日は曇り空でそのお陰で強い影に邪魔されずいろいろなものがフラットに見える。パン屋さん、用水路、公園、その近くの線路を越えて住宅街の奥の方に入って少し歩いた先にその窓はあった。
民家だけれど前面の扉4枚が上から下までガラス張りになっていて中がよく見える。その奥におそらく住人が趣味で描いたと思われる絵が所狭しと飾ってある。絵はスケッチブックに水彩絵の具で描かれたヨーロッパの街並みと思しきもの、絵葉書的な山脈、教会、キリストやマリア像、そんな中に近所と思われる日本的な川や民家の風景。半ばその勢いに圧倒されながらふと視線を部屋の奥から扉のガラス表面に移すと窓の表面には何台もの車とその後ろの木々が映り込んでいる。振り返ると私の後ろには駐車場がありそれらがガラスに映り込んでいたのだ。私は少し混乱する。そのことに気づいてからもう一度ガラスを見ると目がガラス表面の奥と手前どちらを見ていいのかわからず行ったり来たりする。
その2
その日は少し遠くにある神社の庭園を見に行った。お目当ての庭は素晴らしいもので、庭の中にある池は鏡面のようで雨が降ったり、天気の変化によって見え方がくるくると変わり水面をこんな風に見せることができるのかと感動したのだけれど、それはまた別の機会に書くとして今回はその庭園の横にあった事務所の窓について。
夕方の陽も沈みかけた頃、庭を見ることにも満足して庭の外縁を沿うように歩いていたら脇に立つ事務所の窓に目が吸い寄せられた。その窓は部屋の内側にドレープが美しい上下移動のカーテンが設置してあり、そのドレープが窓の向こう側の表面につくかつかないかという微妙な距離感で見えている。カーテンの生地は薄くオーガンジーのような繊細な質感なので電気のついていない部屋の向こう側は暗くなっていることが透けて見える。
そして目の焦点を奥のカーテンからガラスの表面、ガラスに映り込んだ手前の一番明るい部分へと移す。うっすらと明るい空と木のシルエット、そして庭の水面がガラスの左上部に反射している。その反射部分はガラスの背後のカーテンがよく見えなくなるほど明るい。目の焦点はこの明るい部分で戸惑い、見えなくなった奥のカーテンに焦点を合わせようと試みるが叶わず手前に映るぼんやりとした木のシルエットと明るい空の部分をさまよう。
このとき、ガラスで起こっている出来事にいつも驚く。
ガラスという透明な板の表面にこちら側の立体的な世界が平面として映り込み、その奥のイメージと重なるとき、あちらとこちらが混じり合う中間地点、イメージのピント面が唐突に目の前に立ち上がる。
ピント面というのは立体である世界を簡易的に平面に記録するため、目の前の風景を奥から輪切りにしてその断面のみを見ているようなものだけれど、まさにその断面が目の前に立ち現れる。ガラスの向こう側はそのまま奥行きを保って存在しているけれど、ガラスの表面に映ったこちら側の世界はガラスの表面をピント面として向こう側の世界にペーストされる。その奥と手前が混じり合ったイメージの合成、あるいは生成。
この瞬間。イメージが目の前でリアルタイムに生成されるこの瞬間、カメラオブスキュラ(*)の暗い部屋の中で揺れ動くイメージをなぞり続けていた画家たちの驚きを追体験する。イメージは固定されず、目の前で移り変わり続けるけれど、そのイメージは平面(ガラスや画板)の上に縫いつけられ幽霊のように表面にとどまり続けている。
本当はその揺れるイメージを固定して写真と呼ばれるものをつくる必要はなかったのかもしれないと思う時がある。実用としてではなく、見とれてしまうような幽霊的な驚きを失わないために。
ラテン語で〈暗い小部屋〉を意味する。写真の原理による投影像を得る装置で、実用的な用途としては主に素描などのために使われた。写真機を「カメラ」と呼ぶのはこのカメラ・オブスキュラ(camera obscura)に由来する。