写真をとおして「ものを見ること」を考察する、写真家・細倉真弓さんによるエッセー、第二回をお送りします。写真、そのもっとも基礎的な要素といえる光と影。そのうち細倉さんが目にとめたのは影のほう。影は私たちに何を語りかけているのでしょうか。
Vol.02 影について
直射する光を遮ると、その影ができる。こんなに当たり前で簡単なことに毎日はっとしてしまうのはなぜなのだろう。影は写真そのものにとても似ている写真の原体験のようなものだ。
暗室でものそのものの影を印画紙に写しとるフォトグラムという技法は私たちにそのことを強く思い出させてくれる。印画紙の上に右手を置き、引き伸ばし機で光を数秒あてて現像液、停止液、定着液と印画紙を薬品にくぐらせると真っ白い印画紙の表面に徐々に画像が浮かび上がってくる。黒い背景の中に白い影として右手の形が現れて、定着される。右手の輪郭を光でなぞったような白黒反転したその影は、ディティールが詳細に記されたいわゆる普通の「写真」に比べると抽象的だけれど光に直接触れたという実在感がある。この目を瞑ってものに触れるようなリアリティはなんなのだろうかといつも考える。
でもそれは暗室の中だけに限らない。
よく晴れた日に白い壁に張り付いている木のくっきりとした影を眺めてみる。風が吹くとゆらゆらと葉がそよいで壁の影も同じように揺れる。風が止むと影も動かずじっとしている。葉の隙間をすり抜けた光はそのまま壁に反射してきらきらと眩しく、遮られた光は影として濃いグレーの輪郭を残す。
光が木を撫ででいったその感触について考えてみるのも楽しい。木の幹の硬くて荒い皮膚がところどころ剥がれて下から白くつるつるとした新しい表面が覗いている。幹のいろいろなところから太い枝や細い枝が生えてはその半ばから先端にかけて針のような葉が密集して伸びていて、太い枝のいくつかは道路で邪魔になるからか根本から切られて断面がよく見える。目でなぞるように木の表面を見た後にもう一度影を見てみる。
影は木に似ている。さっき目でなぞった木の輪郭によく似た影が壁の上に投射されている。でもよく似ているけれど違う。木は立体だけれど影は平面だし厚みは圧縮されてぺたっとして色もない、無限にあるように感じたゴツゴツと乾いた表面のディテールもそこにはない。それに壁の手前の地面にも影は落ちていて影は地面から直角に折れ曲がって壁に張り付いている。木はこんな風には生えていない。そして影は木そのものよりも少しだけ大きく見える。
似ている? でも本当に似ているの? もう一度木と影を見比べてみる。よく考えると、その木と影はあまり似ていないようにも思える。光は私が見るような方法で木を見ていない。
例えば自分の左手を紙の上に置いて、鉛筆でその手の形に沿って線を描いていく。出来上がった線は自分の手に似ていてなんだか親しみを感じる。いつも見ている左手の形、あまり指のふしが目立たずまっすぐで、指の長さと手のひらの部分が1対1くらい、親指の付け根の部分が少しくびれている見慣れた自分の左手の形。物理的で直接的でオートマチックな接触により残った形はこの場合光ではなく鉛筆によって描かれたわけだけれど、この直接性を思うとき私はいつもはっとするのだ。
影を見るとき、私たち人間の目の世界に突然私たちとは違うものの見方の世界がなにくわぬ顔で現れる。目で見るというよりは手で触れるような視覚のあり方とでも言えるだろうか。もっと簡単に言えば「何かがものに実際に触れた痕跡」を見ている。
触れるように見ること、というのは比喩だけれど、影は光がものに触れた痕跡を私たちの眼の前に差し出してくれる。
そのことが私をいつもはっとさせる。