今回の「神話と植物の物語」では、ベルギー(通称)のいくつかの街を訪れます。
ベルギーは地図で見ると、前回の「神話と植物の物語」で巡ったイタリアからはスイスやフランス、ドイツの〈黒い森〉シュヴァルツヴァルト、ルクセンブルクも越えて、イタリア半島のブーツの形をそのまま延長して、ヨーロッパ大陸の端まで、いっきに北上したあたり。向かう海は、ヴァイキングの船も行き交った、北海です。
正式名称はベルギー王国(Kingdom of Belgium)。19世紀に隣のオランダから独立した、小さな国です。けれども、じつに多くの民族の織り成す複雑な、その地の歴史は、旧石器時代から始まりました。
公用語も、フランス語とオランダ語(フラマン語)との両方が使われて、ドイツ語を使う地域もあるのですね。日本の外務省のHPには、国名は英語で記載されていますが、フランス語でRoyaume de Belgique、オランダ語でKoninkrijk België、ドイツ語ではKönigreich Belgien、という訳です。
ギリシアやラテンの影響の色濃いイタリアとは変わって、こちらは、ケルトやゲルマンの古い記憶が深く刻まれた土地。
さあ、どのような旅になるでしょう。
まずは首都、ブリュッセルへ。都市の呼び名も、国名同様さまざま。フランス語でBruxelles、オランダ語でBrussel、ドイツ語でBrüssel、英語でBrussels。ここでは、ベルギー・フランダース政府観光局のHPにそった呼び方を使おうと思います。
“la plus belle place du monde”(世界でもっとも美しい広場)、フランスから亡命したヴィクトル・ユゴーがそう言ったという、グランプラス(フランス語でGrand-Place、オランダ語でGrote Markt)。フランスの詩人、テオフィル・ゴーティエもジェラール・ド・ネルヴァルもジャン・コクトーも、時代を超えて、それぞれのことばで讃える広場です。
地理的にもこの王都の中心で、市庁舎(Hôtel de Ville)もここにあります。フランボワイヤン(燃えあがる、火のように輝く、華麗な、といった意味のフランス語flamboyant)様式と呼ばれる後期ゴシック様式の、細かな彫刻で埋め尽くされた、荘厳華麗な建築です。
尖塔のてっぺんには、ドラゴンを退治する聖ミカエル。広場には暗く悲惨なエピソードもありますが、この都市の守護天使は、尖塔の上からすべて見守ってきたことでしょう。
広場をとりまく建築はどれも絢爛豪華で、ブリュッセルの繁栄した華やかな歴史をまざまざと見るようです。ここは13世紀頃から市がたち、その後商人たちの職業別のギルド(組合)が集まった場所でした。
建物には、それぞれのギルドの紋章が掲げられ、ひとつひとつに名前がついているのが素敵です。たとえば「黄金の木」(L’Arbre d’Or)だとか、「白鳥」(Le Cygne)だとか、「天使」(L’Ange)だとか、「星」(L’Étoile)だとか、エトセトラ。
今はショコラトゥリーやカフェやレストラン、ホテルなどになっていますが、どの建物も装飾的で、屋根の上まで光り輝いていて、訪れる人は圧倒されながらきっと魅了されてしまうでしょう。
グランプラスから出てすぐ近くのアゴラ広場(Place de L’Agora – Place du Marcé aux herbes)は、樹木に囲まれた小さな広場。パリの都市改造の時代に取りこわされそうになった、グランプラスの建物を、国令に反してまで守った19世紀のシャルル・ビュル市長(と愛犬)の像のある噴水 (Fontaine Charles Buls)もあります。
人々を感嘆させるグランプラスの今日ある姿は、彼のおかげなのですね。
ところで、古代ヨーロッパ、ケルトやゲルマンの世界では、人々は樹のもとに集いました。聖樹のもとで祈り、集い、ときには意見が交わされ、裁きの決定も行われたといいます。ヨーロッパの街の広場の樹々は、だからとても大切な気がします。
今回のベルギーの旅では、ゲルマン世界の神話〈北欧神話〉の中に、植物を眺めていきたいと思いますが、北欧神話でまず触れておきたいのは、世界樹であり宇宙樹である、巨大な〈ユグドラシル〉(Yggdrasil)! 世界(宇宙)の中心に巨大な樹木がある、というイメージは、なんと感動的なことでしょう!
「九つの世界、九つの根を地の下に張りめぐらした名高い、かの世界樹を、わたしはおぼえている」(谷口幸男訳『エッダ―古代北欧歌謡集』の「巫女の予言」より)
「ユグドラシルという名の梣(とねりこ)の大樹が立っているのを、わたしは知っている」(前出に同じ)
このとほうもなく大きな樹は天までそびえ、枝は全世界の上にひろがり、その根は大地の深みへ伸びています。一本の根は神々の国アースガルド(Ásgarðr)へ、一本は巨人の国ヨーツンヘイム(Jötunheimr)へ、もう一本は死者の国ニヴルヘイム(Niflheimr)へと。
神々の国アースガルドに届いている根の傍らには、神聖なウルドの泉(Urðarbrunnr)があります。そこには運命の女神ノルン(norn)たちが住んでいます。また、巨人の国ヨーツンヘイムに届いている根の傍らには、知恵と予言力をもたらすミーミルの泉(M í misbrunnr)が湧き、神々の父オーディン(Óðinn)は知恵を得るために、自らの片目を捧げて泉の水を飲みました。死者の国ニヴルヘイムに沸き立つフヴェルゲルミルの泉(Hvergelmir)には蛇竜が住んでいて、ユグドラシルの根をかじっています。
樹の高みには、目のあいだに一羽の鷲を止まらせている鷲がいて、リスが、蛇竜と鷲のあいだを行ったり来たり、上へ下へと駆け回ります。さらに、4頭の牡鹿が新しい葉を食べ続け、山羊は新芽をむさぼります。けれど運命の女神たちは、毎日傷ついた根に水をそそぎ、樹を守り、育んでいます。
ユグドラシルはそのように、世界の終末の日まで9つの世界を支え、結びつけているのです。
さて、長くなってきましたので、アゴラ広場からゆったりとした勾配を上がっていったところにある、サン・ミッシェル大聖堂へ行きましょう。そのあとは次回に続きます。
サン・ミッシェル大聖堂(Cathédrale des St-Michel et Gudule)は、ブリュッセルの守護者聖ミカエルと共に、聖グドゥールに捧げられています。王室の結婚式や葬式が執り行われる教会で、1999年にはフィリップ国王とマチルド王妃の結婚式もありました。
13世紀に着手されてから、完成まで300年かかったという、荘厳な教会です。
この教会の50個のカリヨン(フランドル地方の伝統楽器、組み鐘)の奏でる音色は、闇を払い、光を放って祝福の花びらをまくかのような、とても華やかな音色。空に響き渡る鐘の音は、街の誇りであるにちがいありません。