アントワープの旅は続きます。
この街には、ベルギー国内でもっとも古い動物園もあります。1843年に創設されました。
前回のVol.11で登場した、ベルギーの大作家メーテルリンクなどの、象徴派の時代より少し前の時代です。
ここはアントワープ王立動物学会(Société Royale de Zoologie d’Anvers)によって、研究のために作られました。飼育されている動物の種類の豊富さは、ヨーロッパ随一といわれます。
動物園とは思えないような金色に輝く立派な入口は、開設されたときからのものです。宮殿かとも見紛うような豪奢な中央駅と隣接しているので、列車で到着した人たちに、華やかな街の風貌を、驚きをもって印象づけたことでしょう。
エジプト館などといった、エキゾチックな趣向もこらされています。時代のときめきや興奮が、今も伝わってくるようです。
ところで、私たちの時代のパンデミックの影響は、動物たちにも及びました。アントワープの動物園では爬虫類館が閉鎖された、というニュースも伝わりました。動物たちはみな、新しい住居へ移動したと聞きます。
けれどもこの困難な時代も少しずつ変わっていくとよいですね。
少しずつ、少しずつ。
またしばらく歩いていくと、ある教会の前の広場では、スーフィーダンスをしていました。
踊ることで、時間や空間の限界をも超えて、神の領域に近づいていく、瞑想的な聖なる舞踊。
白いスカートが空気をはらんで、くるくるとまわり続けます。
その様子にはなにか心をとらえるものがあって、眺めていると、見ているこちらも時間を忘れてしまいそう。
観客もたくさんいます。それぞれ飲み物を飲んだり、おしゃべりしたり。楽しい空気はひろがって、その場を明るく、みなを包んでいく。
祈りや喜びは、宗教の枠を超えて響きあいます。
国際都市、という言葉も思い出されます。
さて、この前ご紹介した神話の場面は、息のつまるような壮絶な〈ラグナロク〉(Vol.10 )だったので、明るいすてきなくだりも記しておきましょう。
ブラギ(Bragi)という、詩の神さまのお話です。
彼はVol.2で登場した、黄金のリンゴを守る〈永遠の若さの女神〉イドゥン(IdunまたはIduuna)の、夫ともなる神さまです。
お話はこんなふう。
それを飲めばすばらしい詩人になれるという、蜜酒がありました。それを守っていたのは、巨人グンロッドでした。
あるとき、神々の王オーディンはそれを飲みたくて、蜜酒を守っているグンロッドを誘惑します。
そうして、オーディンを父として、巨人の母からブラギが生まれました。
ブラギは生まれたあと、鍾乳石のいくつも垂れ下がった暗い洞窟のなかで、日々をすごしていました。
「大地の底に棲む侏儒たちがそれを聞きつけると、
『詩の神が現れた。音楽の神が現れた。これから世の中が素敵に面白く楽しくなるぞ』
と、大騒ぎをして喜び合った。
彼らは洞窟を訪れて、黄金づくりの竪琴をブラギに与えたばかりでなく、詩と音楽との神を一艘の舟に乗せて、明るい世界に連れ出すことにした」
(『世界神話伝説大系29 北欧の神話伝説Ⅰ』松村武雄編 名著普及会)
舟のなかでじっと静かに横たわっていたブラギは、明るい光の世界へ出ると、おきあがって竪琴を奏で始めました。
そして、〈生命の歌〉を歌うのでした。
「歌声は高くかけって、天上界に響きわたり、低く沈んで、死の神ヘルが治めている冥府を揺るがせた」
(前出書)
やがて舟が岸に着くと、ブラギは森へ入っていきました。
ブラギの歌うままに、詩が生れ、美しい調べが流れます。
すると、木という木が、ブラギの奏でる調べにつれて、つぎつぎと蕾をつけます。
そうして、つぎからつぎへ、芳しい花々を咲かせていきました。足もとにも、花々が生れあふれていきます。
こうして世界は、音楽と花々に満ちていきました…。
その後ブラギは、イドゥンと出会って、ふたりは、恋に落ちます。
生命をもたらす神と、生命を若々しくさせる神とが出会い、世界は豊かに輝いていくのですね。
さて、北欧神話をたどるベルギー紀行は、これで閉じることにいたします。
いつもお読みくださって、ほんとうにありがとうございます。
イタリアに続いてベルギー、というのは、ちょっと唐突な感じがしたかもしれません。でもこの連載を進めてみると、イタリアとベルギーの人や文化、経済は、じつは深くつながっていた、ということもわかってきました。
世界はなんとさまざまなところで、重層的に関わりあっているのだろうと、驚くばかりです。
まだまだ知らないことに満ちた世界。
その美しさ、歴史や文化、先人たちの叡智や美意識を、敬い、学びながら、進みたい。
それは、私たちが思考して、願い、新しい世界を創るための、力となるでしょう。
そして、まなざしや呼吸をあらたにするためにも、旅を続けたいですね。
いつのときにも、困難を越えて。