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神話と植物の物語

2021.09.15

神話と植物の物語ーベルギー紀行ーVol.9

文・写真/乾 ゆうこ

アントウェルペン(Antwerpen)。
 その呼び方はフラマン語(ベルギーで話されるオランダ語)です。フランス語ではアンヴェルス(Anvers)。
 日本で一番なじみ深いのは、英語のアントワープ(Antwerp)かもしれませんね。

 この街に列車で到着すると、大理石造りの、堅牢で壮大な駅に驚かされます。
 まるで老いた王が、重厚な玉座にどっしりと座って、はるかな国々から訪れる賓客たちを迎えているかのよう。

 じつはヨーロッパで最初の、公営の鉄道列車が走ったのは、ベルギーです。1835年にブリュッセルからメヘレンへ、初めての路線が敷かれます。
 そして1843年に、アントワープはケルンと鉄道でつながりました。長い歴史のある駅です。

アントワープ中央駅(オランダ語で Antwerpen-Centraal)。木製の駅舎の改築が1895年に始まって、10年後に完成した
終着駅のホームに到着すると、長いエスカレーターをのぼって出口へ向かう。まるでレース模様のような繊細な装飾も美しい。
時計の下方に、〈Antwerpen〉と金文字で刻まれている
駅を出ると、通りには近代的なビル。遠くに見えるのは大聖堂の尖塔かと心がはやる

 このあたりに人々が住み始めたのは、2~3世紀頃。12~14世紀には、毛織物産業と金融の中心ともなる都市に発展しました。
 その後、港の衰退したブルージュにかわって、16~17世紀に黄金時代を迎えます。当時、一説には人口の7分の1は外国人だったというほどの、世界都市として繁栄したのです。

 アントワープの街を歩くと、古い建物を使ったり、ファサードだけでも古い部分を残したりしている様子を、あちらこちらで目にします。
 時の移り変わるなかでの、古きものと新しきものの稀有なコラージュ。

 そうやって、土地の記憶=文化は守られていくのですね。プライドとともに、その土地の個性は磨かれていくのでしょう。

駅から少し歩くと、今はホテルや商店などとなっている、ネオバロック様式の歴史的建造物。
ちょっと移動すると、すぐ近くには瓦礫の山。街はどんどん変わっていく
重厚な建築に並んで、今や世界的大ブランドとなったカタカナの名前も現れたり
大通りから横道に入ると、ビルの隣にオペラ座があったり
古い門が、建物の一角に生かされていたり

 この街の市庁舎(Stadhuis Antwerpen)は、イタリアとフランドルの両方の特徴のある、イタリア・フランドル・ルネッサンス様式と呼ばれる荘厳な建築です。
 じつは訪れたときは工事中で、建物には覆いがかかっていました。がっかりするはずのところですが、その覆いには街の歴史などを描いた絵が美しく彩色されていて、思いがけず楽しい。  
 そんな工夫にも、その街の感性のようなものが表れますね。

1561年から1564年にかけて旧市庁舎からつくりかえられた
正面ファサードの下部にはフランドルを物語る絵が描かれている。ファサードの様式はドーリア式、イオニア式、コリント式の柱頭をあわせもつ

 市庁舎前のマルクト広場(Grote Markt)には、ブリュッセルのグランプラスやブルージュのマルクト広場と同じように、やはりギルドハウスが並びます。
 広場の中央には、ブラボーの噴水(Standbeeld van Brabo)。

 英雄ブラボーの像は、この街の名の由来を物語ります。
 かつてスヘルデ川(Schelde)岸に、巨人ドルオン・アンティゴーン(Druon Antigoon)の城があったそうな。
 スヘルデ川は今も流れる、この地域の発展の要となってきた川です。

 伝説によると、巨人は城の付近を通る船に、通行料を課しました。そして、払わない者の手を切り、川に投げ捨てたといいます。

 人々は巨人に苦しめられていましたが、あるとき、古代ローマの戦士ブラボーが巨人に立ち向かいました。そしてついに、打ち勝ったのです。
 ブラボーは巨人の手を切って、それを川へ投げ入れました…。

マルクト広場のブラボーの噴水
なんとも激しく勇ましい伝説。それが街の名前のもとにもなっている(諸説あり)
市庁舎の近くには、往時の偲ばれる華麗な建物。今はカフェやレストランが入っている
建物を飾る彫像たち

 そういえばこの市庁舎は、Vol.4でもちょっと触れた『フランダースの犬』(〈A Dog of Flanders〉、ウィーダOuida作、1872年)にも登場しました。
 『フランダースの犬』の作者はイギリス人です。イギリスで、つまり英語で書かれたため、ベルギーでは日本のようには知られていなかったそうです。

 主人公ネロ少年の見たくてたまらなかった、ルーベンス(Peter Paul Rubens、1577年~1640年)の祭壇画のある教会も、この広場の近くにあります。
 ゴシック様式で上へ上へと、尖塔が天にそびえる聖母大聖堂(Onze-Lieve-Vrouwekathedraal)です。

 16世紀に完成した尖塔は、当時、ネーデルラントで最も高い建築物でした。
 神聖ローマ皇帝カール5世(Karl V、1500年~1558年)も、その見事さを讃えたといわれます。

聖母大聖堂。下から見上げると首の痛くなるほど、天へと高くそびえている
大聖堂の側面にある、建設の偉業に貢献した建築家や職人たちを讃える彫像たち。彫像の近くで、彫像に扮するパフォーマンスをする女性もいました
大聖堂から伸びて、市庁舎横を通るSuikerrui通りはカフェなども多く、人々がそぞろ歩きを楽しむ

 神聖ローマ皇帝カール5世の治世の下、16世紀は、フランドルがあらゆる意味でヨーロッパの中心として、燦然と輝いた時代です。
 それはまた、大航海時代とも重なっています。

 世界が広がって、メルカトル(Gerardus Mercator、1512年~1594 年)やオルテリウス(Abraham Ortelius、1527年~1598年)などが、世界地図を描きました。
 そして、ヴェサリウス(Andreas Vesalius、1514年~1564年)は解剖学を発展させて、近代医学の基礎を築いていきました。

 アントワープは、そうした最先端の学問を世界に発信した、印刷や出版の街でもあるのです。

 その中心であったのが、プランタン社。現在はプランタン・モレトゥス印刷博物館(Museum Plantin-Moretus)として、16世紀中期からの、歴史的な印刷工場が公開されている、感嘆すべき場所です。

 プランタン印刷機とも呼ばれる、世界最古といわれる木製の印刷機は、見事です。
 黒々と光る重厚な機械は寡黙でいて、今も魂の宿るような、その存在感。圧倒されないわけにはいきません。

プランタン・モレトゥス印刷博物館へ
古いガラス窓からさし込む光のなかで、今は眠る印刷機。かつてこの部屋は、どんな音でみたされていただろう
工場といっても、エレガントな住居とつながっている

 創設者クリストフ・プランタン(Christophe Plantin、1520年~1589年)は、皇帝の庇護もあり、約1500点の書籍を出版しました。彼の工場であり、書店であり、住居でもあった、この館のあらゆるものが感動的ですが、中庭がまた、すてきです。

 バラや、ラヴェンダーなどの芳香植物、そして壁にはツタが絡まります。
 庭園は、古代の世界観を映します。(以前に世界最古の植物園といわれる、パドヴァのオルト・ボタニコOrto Botanicoを訪れましたね。「神話と植物の物語―北イタリア紀行― Vol.5) 
 庭園には、楽園のイメージが重なります。

博物館の中庭
ラヴェンダーの花の香りのなかで、太陽の運行が時間を知らせてくれていた

 そろそろ北欧神話に移りましょう。
 北欧神話はつぎのように語られます。

「時の始めだった。
ユミル(原巨人)が生きていたのは。
砂も海もなく、冷たい波もなかった。
大地は全くなく、上には天もなかった。
あるのは底なしの裂け目だけだった。
草はどこにもなかった」

(「巫女の予言」、下宮忠雄・金子貞雄著『古アイスランド語入門』、大学書林)
「その後、ブルの息子たち(オーディンの3兄弟)が大地を持ち上げた」(前掲書)

 続いて、太陽や月や、緑の大地が現れます。夜と新月に名が与えられ、朝と昼と、午前と午後にも名がつけられます。

 ある日のこと、3人の神が陸を歩いていました。
(この3人の神とは、オーディン(Óðinn)とヘーニル(Hœnir)とロードゥル(Lóðurr、ローズルとも)というヴァージョンと、オーディンとその兄弟ヴィリ(Vili)とヴェー(V é)というヴァージョンとがあります)

「彼らはアスクとエンブラが、
力をもたず、運命ももたず横たわっているのをみつけた。

彼らは魂をもたず、意思ももたず、
血の気も声も、立派な容姿ももたなかった。

オーディンは魂を与え、
ヘーニルは意思を与え、
ロードゥルは血の気と立派な容姿を与えた」
(前掲書)

 アスク(Askr)はトネリコの木、エンブラ(Embla)はニレの木、といわれます。
 また、ゲルマン人にとっては、エンブラはツタを意味する、という説もあります。
 いずれにしても、人間は植物から生まれた、というのが、北欧神話の世界観にはあるのですね。

 そしてミッドガルド(人間の国)やイダヴェル(神々の集う野)が語られます。その野にはトネリコの巨木がそびえています。
 この巨木こそは、Vol.1でお話したユグドラシルです。

 こんなふうに北欧神話は始まり、こんなふうに北欧神話の世界は成り立っています。

 トネリコと、ニレあるいはツタから生まれた、人間という生き物。
 人間とはなにか、と問いたくなる瞬間です。
 問うてみるのも、大切ですね。

バラが壁にそって咲く
仕事や日常生活のあれこれの合間に、そこを眺めたり歩いたりする、それだけでも気分が変わる、庭という宇宙

乾 ゆうこ

ライター

ホリスティックハーバルセラピスト。大学時代に花椿編集室に在籍し、「ザ・ギンザ・アートスペース」(当時の名称)キュレーターを経て、ライター・エディターとして活動。故・三宅菊子氏のもと『フィガロ・ジャポン』『家庭画報』などでアート・映画・カルチャーを中心に担当。出産を機に伝統療法や自然療法を学び、植物の力に圧倒される。「北イタリア植物紀行(全4回)」「アイルランドから〜ケルト植物紀行」(ともに『クレアボー』フレグランス・ジャーナル社)など執筆。生活の木(表参道校)ではクラスを開催。
https://www.instagram.com/nadia_laakea/