
Rocky’s report from Shanghai
2024.05.23
Vol.47 Lost & Blossoms 水郷の町に再生した「繁花書房」
文/令狐磊 Rocky Liang
翻訳/サウザー美帆
上海から西に車で約1時間半、高速道路を降りると静かな水郷の町「黎里(れいり)」に到着します。同里や周庄という有名な水郷の町と比べると、黎里は江南の水郷の町々の中の静かな一角のような風情があります。
4月末、この黎里出身の著名な作家、金宇澄(ジン・ユーチェン)は、自身の郷里への愛情を示すために、先祖代々が住んだ伝統的な江南建築の家屋を「繁花書房」という名のスペースとしてリノベーションし一般開放しました。

家屋の前には小川に面した石造りの小道が東西に伸び、朝日や夕日がその小道に差し込みます。一方、南北に伸びる数百メートルの路地は少し薄暗く、真新しい白壁とモダンな風情の「繁花書房」は、まるで一夜にして花が咲いたかのように、淡い霧に包まれていた灰色の瓦と暗い壁に挟まれた路地を、明るく照らし出しました。


金宇澄は1969年、17歳のときに上海の知識青年として黒竜江省の農場に派遣され、7年間そこで過ごしました。その間、戸籍政策による確認のため一時的にこの故郷の黎里に短期滞在したことがあります。そして1976年に上海に戻ると、彼は時計器具工員や文化宮の職員を経て小説の執筆を始めました。
1985年に最初に発表された小説「失落的河流」は上海青年文学賞を受賞。この小説は東北の広大な荒地を舞台に、上海の女性知識青年が大雪の中で馬の群れを連れ帰るために若い命を捧げるという感動的な物語です。その後、金宇澄は文芸雑誌「上海文学」の編集者を務め、最終的に編集長として活躍。その間、彼は自宅の小さなテーブルの上で、都市の記憶や夢を次々と描き、そして上海語で書かれた小説『繁花』が2012年に文芸誌『収穫』で発表されると、一躍文壇の中心へと躍り出ました。1980年代後半から90年代の変わりゆく上海をリアルに描写した『繁花』(Vol.43参照)は多くの賞を受賞。さらに昨年末から今年初めにかけて映画監督のウォン・カーウァイによってテレビドラマ版が放映。映画版も製作中で国際的にも注目を集める作品となりました。


金宇澄の初めての小説「失落的河流」でも描かれていますが、今、私たちの多くは故郷の河を失い、「風の中に漂う一筋の蘇州河の香り」や「瓦片の温かさ」「黄浦江の船の汽笛」といった原風景的記憶も失ってしまいました。しかし金宇澄が『繁花』で描いた故郷の河のイメージは、清らかな黎里の「繁花書房」で、その記憶の源を見つけることができます。瓦屋根の展望台に登り歴史ある水郷の町を見渡せば、きっとより強くそれを感じることができるでしょう。
かつて黎里は京杭大運河に近接していたため、東西南北の交差点でした。しかし運河の航行が停止し交通手段が変化したことで、この古い水郷の町の記憶は徐々に老化し、金宇澄の先祖代々の家も子孫が上海に移り住んだため、荒廃していきました。しかし町の再開発により、新たな章を描く機会が得られたのです。

数年の月日をかけて改築された「繁花書房」の空間でも、金宇澄は丹念に物語を紡いでいます。彼の小説や絵画がモチーフとなっているアイテムも多く、一歩一景、歩くたびに新しい光景が現れます。最初のエリアでは「繁花」が文学から映像作品に至るまでの物語が、2つめのエリアでは金宇澄の両親の物語が、3つめのエリアでは作家自身の物語が、裏庭とアトリエでは芸術家としての金宇澄の物語が示されています。この江南建築の家屋は、文学と創作の芳香が満ち溢れ、読書スペースにある金宇澄と彼の両親の蔵書を、読者はソファに座って自由に本を読むこともできます。


イスタンブールにあるオルハン・パムクの同名小説と連動してつくられた「無垢の博物館」(注:小説の舞台となった1970年代から90年代までのイスタンブールの人々の日常生活を想起させるようなものが展示されている)を、僕はまだ訪れたことがありませんが、ここはまさに『繁花』の世界観を体現する「書房」です。
書斎内には“座ってはいけない”と書かれた2つの旧式の木製椅子があり、真ん中にはより貴重な丸テーブルが置かれています。それは1951年に、祖母がこの家から上海に持って行ったもので、金宇澄が2011年以降、長く愛用し、「繁花」や両親について綴った「回望」を書き上げた家具でもあります。
「つまるところ私が描いているのは真実でなく、存在しない幻想なのです。それはしかしまた写実でもあるのです」——金宇澄


令狐磊 Rocky Liang
クリエイティブディレクター/編集者
上海の出版社Modern Media社が発行するカルチャー誌『生活LIFE MAGAZINE』『週末画報Modern Weekly』などのクリエイティブディレクターを務める。同時に文化とビジネスの新しいスタイルの融合を目指す文化力研究所の所長として『花椿』中国版の制作を指揮するなど多方面で活躍中。

サウザー美帆
編集者/翻訳者
元『エスクァイア日本版』副編集長。上海在住を経て、現在は東京を拠点に日中両国のメディアの仕事に従事。著書に日本の伝統工芸を紹介する『誠実的手芸(誠実な手仕事)』『造物的温度(ものづくりの温度)』(中国語、上海浦睿文化発行)。京都青艸堂の共同設立者として中国向け書籍の出版制作にも携わる。