次の記事 前の記事

Rocky’s report from Shanghai

2024.01.30

Vol.43 『繁花 (Blossoms Shanghai)』 ウォン・カーウァイが描く霧の上海

文/令狐磊 Rocky Liang

翻訳/サウザー美帆

 香港映画の巨匠・王家衛(ウォン・カーウァイ)監督による初のテレビドラマ『繁花』が話題を集めています。これは小説家の金宇澄(ジン・ユーチェン)による同名小説を映像化したもの。1990年代の上海を舞台に、大きく変化する時代に生きる人々の姿を描いたこの長編作品は、2012年に中国最高峰の文学賞「茅盾文学賞」を受賞(注:日本語版は早川書房より2022年に出版)。テレビドラマで主演の阿宝(アー・バオ)を演じるのは、中国の人気俳優の胡歌(フー・ゴー)で、2023年末に放送がスタートしました。

 ウォン・カーウァイはかつて映画『花様年華』(2001年日本公開)で、1960年代の香港を詩的に描きました。揺れるチャイナドレス、黄昏時の街灯、狭い路地、石畳の階段。最も香港をよく知る人にとっても、この映画では見たことのない香港が映し出され、それは監督の感情の霧のようでもありました。

 『繁花』もまるで音楽のように、1990年代の上海の記憶が多様な変奏で織り成されます。暗く陰鬱な調べ、複雑なピアノの旋律、激しい弦楽の響き。まさに大きく変動していた頃の上海で、浦東のテレビ塔は建設中。歴史的建造物の外灘27号は外貿企業のビルに変わり、道を行き交うサンタナのタクシーに乗っているのは、都市に住む冒険者や失意の人々です。

 撮影監督のピーター・パウ(映画『グリーン・デスティニー』でアカデミー賞最優秀撮影賞を受賞)が映し出すのは、上海の冷たい雨の風景、煌びやかなネオン、混雑した狭い路地と人間関係の矛盾。そこには華やかな人々と素朴な感情が共存し、加えて株式市場の狂乱とビジネス戦争が重なります。しかしテレビドラマの語り口で物語が進みながらも、この監督ならではの質感やアーティスティックなディテールは失われてはいません。ウォン・カーウァイ映画のファンや、魔都上海に魅了される人々にとって、この作品は好みの雰囲気が満載とも言えるでしょう。

 『繁花』全30話は中国では既に放映が終わっていて、もっとも僕の心に残っているのは第14話と第28話です。この2話では、主人公のアー・バオと雪芝(シュエ・ジー)との十数年にわたる愛の物語が描かれます。アー・バオが一途に愛したシュエ・ジーは13路バスの切符売り場で働いており、当時のアー・バオは工場の技術者。彼らは公共バスで出会います。ウォン・カーウァイは彼らの初恋の場面を一軒の羊肉料理店に設定し、霧に包まれたような情緒豊かなシーンが繰り広げられます。

 このドラマの文化歴史顧問で作家の李舒(リー・シュウ)は、彼女がウォン・カーウァイ監督のために書いた「十の美食物語」のうちのひとつを取り上げて、ドラマの一部について説明しています。彼女の話は、雲南南路にある羊肉しゃぶしゃぶの名店「洪長興」での経験に基づいています。
 「店に入ると人混みがすごく、はっきりとした様子が見えない。まるで仙人の住む山に漂うような蒸気が立ちのぼり、窓ガラスは白い霧に包まれている。部分的に窓の外の風景が見え、風が吹き、雨が激しく降っている。向かいの道路では小さな子供たちが赤い傘を差し、男性は恋人をしっかり抱きしめ、それを見て女の子が微笑んでいる。暗闇の中で赤い傘は鮮やかに見え、ガラス上の雫はますますぼやけていく。シトシトと、涙のように」
 彼女のこのような描写はほぼそのまま、ドラマの中での視覚的な印象にもなっています。

 アー・バオとシュエ・ジーはさまざまな理由から「再び10年後に会おう」と約束します。このときアーバオは「やっとわかった。彼女の切符は僕を過去に留めるしかない。その夜、僕は13路バスを降り、向かってくる別の車に乗った。切符はなく、ただ10年だけがある」と心の内で語ります。この一節はウォン・カーウァイ独特の表現でもあります。『花様年華』での船が、ここでは“別の車”に変わりました。この場面の結末では「男女関係は1分1秒でも違えば、すべて空虚となる」という、原作の一文が思い起こされました。

 『繁花』には、頻繁に登場する2つのレストランがあります。ひとつは進賢路にある「夜東京」で、その空間は現在同じ路にある「春餐庁」や「蘭心餐庁」に似ています。もうひとつは黄河路にある「至真園」で、現在の「苔聖園」(1990年代にオープン)がモデルとなっています。和平飯店のエレベーターや花園飯店のバーカウンターなども現在と変わらない姿で、リアリティを感じさせます。また、東京から帰国した玲子(リンズ)が、日本の懐石料理のスタイルを取り入れた上海料理をつくり出すシーンなどでは、1990年代の東京と上海のユニークな関係がノスタルジックに描かれています。

 テレビドラマ版『繁花』は2019年末に制作が始まり、上海の郊外の撮影スタジオにおいて、黄河路、進賢路、牯嶺路、さらには和平飯店のイギリス風スイートルームまでが忠実に再現されました。制作はクランクアップの2023年7月まで、コロナ禍を経て3年以上かかり、その間ウォン・カーウァイ監督は上海を離れず、郊外のホテルに滞在しながら脚本と編集作業に没頭していたそうです。

 このテレビドラマには、ひとつの広く知られたセリフがあります。「今日の太陽の光は明日の服に当たらない。時間がすべてを決める」。この作品は、上海という都市に流れる時間を叙事詩のように描き出し、僕たちは今、その余韻を噛み締めていますが、ウォン・カーウァイが描き出した上海を消化しきるには、おそらくまだ時間がかかるでしょう。それはやはり誰もこれまでに見たことのない上海だったからです。

令狐磊 Rocky Liang

クリエイティブディレクター/編集者

上海の出版社Modern Media社が発行するカルチャー誌『生活LIFE MAGAZINE』『週末画報Modern Weekly』などのクリエイティブディレクターを務める。同時に文化とビジネスの新しいスタイルの融合を目指す文化力研究所の所長として『花椿』中国版の制作を指揮するなど多方面で活躍中。

サウザー美帆

編集者/翻訳者

元『エスクァイア日本版』副編集長。上海在住を経て、現在は東京を拠点に日中両国のメディアの仕事に従事。著書に日本の伝統工芸を紹介する『誠実的手芸(誠実な手仕事)』『造物的温度(ものづくりの温度)』(中国語、上海浦睿文化発行)。京都青艸堂の共同設立者として中国向け書籍の出版制作にも携わる。