恋人同士と思しき二人は、男子の方はヨウジヤマモトを着た菅田将暉さん、といった感じ、女子の方は、恐らく年上で、あれ間違いなくZARAでトータルコーディネイト、しかし全く死角なし。といった、つまり非常におしゃれで、頭の回転も早そうな感じでした。
それまで何を話していたのかわかりませんが、あるときおもむろに、女子が男子にこう言ったのです。
「あたし、全然、これ、ディスじゃないよ。完全に良い意味で、なんだけど、あなたに父性を感じたことないの。全く」
以下、ほぼすべての会話の再現はこんな感じでした。
「うん、そうだね。俺に父性なんかあるわけないっていうか。俺って、いつまでもガキだし」
「ああ、やっぱり、自覚あるんだ。そうだよね。とにかく、安心感とか、包容力とか……なんていうの? 許してくれる感じ? とかが全くないの。あの、あれだよ、これ、悪い意味じゃないよ。あたし、ファザコンとか意味わかんないし」
「うんうん」
「だけど、逆に、母性本能?も全くくすぐられないのよ。そういうとこ、何でだろう、あたし好きなんだよね。なんか、みんな、求めるでしょ。そういうの」
「確かに。でも、俺も君に、母性全く感じないから(笑)、そういう事なんじゃない?」
「え?あたし、母性ない?」
「ないない。何でもきちんと追求するじゃん。ちゃんと。あー、○○くん、良いよ良いよ〜、みたいなところ、全くないし、でも、俺もそういうところ、好きなんだよ」
「やっぱり!」
「優しい女が良いとか、そういうのいっぱいいるじゃん」
「そうだよね」
「まあ、俺が1ミリパーセントもマザコンじゃない。とは言わないよ。でも、男は誰しもねえ」
「そうねえ、少しはね」
「でも俺、彼女がお母さんみたいに何でも認めてくれて、世話も焼いてくれて、なんていうの? 包んでくれる? 安心させてくれる? みたいのを凄く求める奴って、ロクでもないと思うよ」
「そうそう!絶対そう!」
カフェの隣席にいたカップルの話に、いちいち物申す、なんていう趣味は全くありません。ただ、この会話、かなり引っ掛かったんですよね。脳内でワタシは、こう質問していました。
「あのう、ご両人、差し出がましいとは思うんですけど、お話聞かせていただきまして、ちょっと思ったんですけど、今の流れで『父性』と『母性』、全く同じ意味ですよね? まあ、良いんですけど」
フロイドを持ち出すまでもなく、古典的な意味での「父性」は、厳しく、強く、そのかわりに自分を導いて律してくれる、頼り甲斐のある存在で、要するにアンチオイディプスの源泉で、緊張や殺意までも強いるし、「母性」は、そんな父性に折られかけた子供を無償の優しさと包容力で包み込む存在で、あらゆる安心感の源泉です。
ワタシ、結構この会話に、いろいろ見てしまいました。要するに、古典的な意味での「父性」は、もうこの世に存在しない感じで、女子も男子も「優しく、安心させてくれる存在」を求め、それを各々「父性」「母性」と呼び分けているわけです。同じなのにね。
単純な話、「父性」はどこ行っちゃったんでしょうか? もう必要もないし、実態もないのかしら? どう解釈したらいいんでしょう?
親像のジェンダーが転倒したとか、父性と母性が液状化してしまっているとかいう側面も、若干はあると思うんですけど、やっぱ「混ぜて混ぜて、ガラガラポンしてみたら、ぜんぶ母性になっちゃった。」という事でしょう。
地味ながら、結構コレすげえ話だよなあ。とワタシは思いました。誰もが幼児退行を起こして、母性的なものだけを欲しがり出したのか、それとも実際のお母さんたちが、母性を切らせてしまっていて、慢性的な母性待望が起こっているのか? 実際の親というリアリティよりも、一足飛びに神様みたいな慈愛を見上げるアンリアルの方が、何かと丁度良いのかしら? まあ結局は「恋人たちは、互いに母性を求め合う」とすればそれで終わりとも言えますけどね。
しかもですね、この話の最もコクのあるところは、若いカップルが、オール母性に液状化しちゃった、象徴的な親像を、「古い」「全く要らない」と、口を揃えているところなんですね。なんかもう、図式的な分析が効かない状態になっているような気がします。この人たち、「私たちは甘え合いません」と、隣席にアナウンスして憚らないわけです。今っぽいなー。