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どうしたいか解らない病の処方箋

2016.08.26

第二回「死ぬまで可愛くいたい」VS「絶対老いたくない」

文/菊地 成孔

絵/瓜生 太郎

連載二回目でいきなりダメでしょそれは。という感じなんですが、先日、母を亡くしまして、享年88でした。この連載はあんまりドープにしたくないので、軽やかにいきたいのですが、彼女は認知症で、ここ10年ほどは、自分がどこにいて、誰と話しているか解らない。といったレヴェルではなく、もう日本語、というか言葉自体も話していませんでしたし、空間概念も何もかも、半分以上、あちらの世界にいました。

ただ、やはり太平洋戦争を生き延びて(ワタシの故郷、千葉県銚子市は、有名な東京大空襲の後に、米軍が残った爆弾を落として太平洋に出た、東京の東端ですので、凄まじい空襲に見舞われました。彼女は9人兄弟の長女だったので、8人の妹や弟を連れて、空襲から逃げ延びたのです)、戦後もずっと働きずめだった女の体力はハンパねえとしか言いようがなく、言葉こそ喋りませんがご飯もばんばん食べるし、声はデカイし(ワタシの実家は水商売でしたので、悪い客が来たら、フロアを守る女達が声で威嚇して追い払わないといけません。ワタシの記憶では、彼女は3日に一度は悪客相手に啖呵を切ったり怒鳴りつけたりして、その時のメンチの切り方も物凄かったのです)、無茶苦茶パワフルだったんです。

たまに見舞いに行き、死に行く母の手を握り、交情のひとつもしようかと思うと、ワタシを何だと思ったか、手首を思いっきり掴み返して来て、握力は凄いわ、更には引き込む力もレスラーのようで、ワタシは彼女のベッドに引きずり込まれそうに成りながら「痛てててててて!! 止めろかあちゃんオレだよ成孔だよ! 痛い!! ヤバいヤバい! この人ケンカ出来るよまだ!!」等と叫んで、看護士の方々を笑わせたりしていました。

昭和の、田舎の漁師町の、しかも水商売と言っても飲食なので、スキンケアを始めとする美容一般も、肌も髪も、丁寧に手入れをしている所など見た事がありません(たまに家族旅行となると、普段し慣れない「お化粧」をするので、何かヘンな感じに成ってしまう。という、中年以上の方にはお解りに成るであろう、アレです)。

それでも彼女の肌、髪、爪は、いつでもピカピカで、老婆になっても(死因は「老衰」です)、記憶を失い始めても、完全に失っても、野獣の様になってしまっても尚、皺こそありますが、肌の張りも、白髪100%の毛髪の毛並みや艶感も、若い女性の様でした。

そして、とうとう亡くなった。その瞬間の彼女の顔は「にっこり笑っている」顔でした。「穏やかに微笑んでいる」とかではありません。完全にニッコリ笑っているので、ワタシは10年に渡るサプライズを仕掛けられて、今日がバラしの日なのだ(「ずっとボケたふりしてなんだよー。あははははははは」と、立ち上がりそうだったので)、どういうドッキリだこれは? と、腰が砕けるようでした。

家族のエピソードを使って、感動的な話をしよう、なんて下衆な事をしようというのではありません。看護士の若い女性達は、ワタシの母親を「可愛かった」「本当に可愛かった」といってボロボロに泣いていました。アンチエイジングとか言ってどんなに抵抗しようと、人は歳をとります。そして「かっこいい歳のとり方をしたい」「素敵なおばあちゃんになりたい」と人は言います。それはそれで素晴らしい、というより、普通の事ですよね。

でも、ワタシの母親は、そういう事は一切考えてなかったと思います。「北風と太陽」なんて決して言いません。時代が違う。ワタシが申し上げたいのは、何年間も命の危機に瀕したり、朝から晩まで肉体労働をしたり、酔っぱらいを怒鳴りつけたりしながら燃える様に生きて、認知症などの病気に成って、自分自身が誰だかも解らなく成っても燃える様に生きて、そういう形でしか磨かれない、女性のスキンケアやヘアケアがあるのだという事に慄然としている。という事です。

菊地 成孔

音楽家/文筆家

1963年生まれの音楽家/文筆家/大学講師。音楽家としてはソングライティング/アレンジ/バンドリーダー/プロデュースをこなすサキソフォン奏者/シンガー/キーボーディスト/ラッパーであり、文筆家としてはエッセイストであり、音楽批評、映画批評、モード批評、格闘技批評を執筆。ラジオパースナリティやDJ、テレビ番組等々の出演も多数。2013年、個人事務所株式会社ビュロー菊地を設立。
http://www.kikuchinaruyoshi.net/

瓜生 太郎

イラストレーター

東京都在住。ファッションをテーマに女性を描くことを得意とし、シンボルマークのような図形的描写とシンプルな色使いが特徴。主な仕事に、銀座三越ウインドウディスプレイや表参道ヒルズシーズンヴィジュアルなどがある。
http://tarouryu.com/