音楽理論を学校で教えたりしている身ですので、小声で言わなければなりません。本当の事を言えば、言語とか音楽とかいう物は、学校で先生に習うのも悪くないけれども、独学、と言うより、暗号を解読するようにして、自分で身につける、という経験の方が、遥かに深く、みずみずしい体験として、脳も体も刺激します。最近は、どんな調べごとも親指一本で分かってしまうので、「暗号を解く」という、一番ワクワクする経験が失われていますね。
恋に落ちるのは結構簡単だけど、恋愛を育んでゆくとき、いきなり何が何だか分からなくなってしまい、結局ダメになっちゃった。という経験は有りませんか? これは、恋する二人が、「他人という、最も解読が難しい暗号」をワクワクしながら解いてゆく体力が落ちている。と言えるかも知れません。
音楽には「コード進行」という物があって、簡単に言えば、ピアノやギターで歌の伴奏なんかをするとき、<Cm7/♭B△7/D7sus4/>といった、正に暗号のような、アルファベットと数字で出来た記号を見た事が有る。という方も多いと思います。
この暗号に対して、私はその日まで完全な文盲でした。楽譜に書いて有るオタマジャクシは読めたんですが、この暗号は、外国語のように、手も足も出なかった。
遥か昔のこと、でも正確な年も、季節も分かるのです。私は17歳の高校2年生で、その日は春休みの1日でした。
当時、資生堂は「シーズンごとのキャンペーンソング」という販促スタイルで、カネボウと激戦中でした。せっかくスマホを持っているのだから、「資生堂 カネボウ キャンペーンソング商戦」と入力してみて下さい。完璧なアーカイヴが出てきて、驚きます。
そして、当時の『花椿』は、裏表紙をめくると、すぐその裏に、そのシーズンのキャンペーンソングの楽譜が、オタマジャクシもコード進行の暗号も、歌詞も、ワンセットで印刷されていたのです。
現在は山下達郎さんの奥様である竹内まりやさんが歌う「不思議なピーチパイ(作曲・加藤和彦/作詞・安井かずみ)」は1980年の、春のキャンペーンソングでした。
母親の鏡台の脇にあった『花椿』の楽譜を見ながら、そのキャンペーンソングを歌うのが好きだった私は、その日、友達と遊ぶ約束も、バイトも、何の予定もありませんでした。
特別「不思議なピーチパイ」が飛び抜けて好き。という程でもなかったんですが(というより、この時期は「昭和ポップス」の黄金期ですから、資生堂のキャンペーンソングは、もう、全部良い曲。だったのです)、運命の出会いというのはみんなそういうものでしょう。気が付いたら私は、全く読めない暗号の解読に熱中していました。
「このCとCmはどう違うのだろう。7と△7というのがあるけど、どういう事なんだろうか?」ピアノを弾きながら、自分でもびっくりする程の集中力と推理力が働き、曲を歌いながら、何度もトライ&エラーを繰り返した私は、なんと、昼過ぎから始めて、晩御飯だと母親に呼ばれる頃には、コードが全て読めるようになっていたのです。
この知的/音楽的な春の1日がなかったら、今頃私は音楽家ではなかったかも知れません。それが『花椿』ではなく、正規の楽譜集で、竹内まりやさんではなく、もっとセクシーで、軽やかさの少ないタイプ(例えば、今井美樹さんとか)の女性だったら、続いていなかったかもな。と思います。「<不思議なピーチパイ>を歌っていた頃の竹内まりやさん」のような、都会的でボーイッシュでもガーリーでもあるキュートな女性って、今でもいるんでしょうか?