すいかの赤さ。
めろんの青さ。
2つの果物。
そして、1つの肉体。
私のすいかは、赤く熟れ、
いまにもはち切れんばかり。
私のめろんは、青く澄み、
いまかいまかと待つばかり。
*****
そっと一握り、腕に担がれて、
茎をさくりと切られて、
私のすいかとめろんは、
他所へ行った。
他所でどんなことをされたのか。
私の手元には、
カットされ、量られた、
すいか1パック、298円。
めろん1パック、398円。
「これは、私のすいかとめろん?」
「いや、違う。私のではない!」
「では、誰の?」
*****
私は、私のすいかとめろんを
追いかけた。
誰かが言う。
「もう遅い。遅すぎた。」
道の駅も農協も中央卸売市場も。
HONDAの軽トラックから
ISUZUの1トントラックまで。
どこまでも追いかけた。
たどり着いたのは、1軒の果物屋。
(私のすいかとめろんは??)
「そこの、すいかとめろんなら、
とうの昔に売れましたよ。」
「そうですか。」
*****
「やはり、遅すぎたのだ……。」
呆然となった私は、
ふらふらと帰るほかにない。
取り戻せないのだ。
きっと、私から、手放したのだ。
だから、もう、金輪際、追いかけまい。
*****
私のすいかとめろんは、
私から離れてしまった。
しかし、
私の手元には、真新しい、
すいか、と、めろん。
夏に光る、
2つの果物。
そして、1つの肉体。
選評/高橋源一郎
「すいか」と「めろん」である。「西瓜」でもなく「メロン」でもない。「りんご」ではなく「いちご」でもない。「みかん」でもなく「もも」でもない。ひらがなの「すいか」と「めろん」は、水分を大量に含んでずっしり重く、大きく、抱き抱えなければならない。それらは、いつか、割られて、切られて、食べられる。そうでなければ、誰も必要としなければそのまま棄てられる。そのようなものをわたしたちは持っている。というか、わたしたち自身がそうなのか。読んでいるうちに、心配になって、わたしは家族にこういった。「あの、おとうさんは、すいかでもめろんでないので、食べないで。いや、棄てないで」