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今月の詩

2023.09.01

逢魔が時

詩/小宮正人

背中が曲がっている気がする
背筋が伸びていないと言ったほうが
良いかだな
丸まっているというのかな
半円とまでは言わないが
自分でそう思うのだけどね
気のせいなのか
鏡で正面からだと判りにくい
そりゃあそうだろ
何事も側面から見るのは大事だな
それはそれとして肩の辺りに何か
乗っているのかな
重みで丸まってくるのかも
乗っているとしたら何だろうか
様々な記憶が心からはみ出して
漂っていつも肩の辺りに
乗っている気がするな
忘れないでくれっていうアピールで
漂っているのかな
心の中ではいつも眠っているのだろうさ
そういえば諦めた事が志があったな
この頃思い直して
少しずつ挑んでいるのだがね
その昔の思いにね応えようじゃないかと
いつの日か背筋がピーンと伸びた自分に
なりたいものだ
やる事はやったと自分に言いたいのだな
まあ出来る範囲には
限度っていうものがあるがね
但し それを超えてゆくんだという気概がね
挑む事の楽しさになるんだな
今はまだ背中がね曲がっている気がする
でも少しずつ肩を軽くしている気はしている
世の中の変化の速さに挫けずに
不条理もある道を嘆かずに
誰かの悪知恵さえ退路も時には活用してだな
すり抜ける
柔軟な選択は賢者側になれる
巷に溢れる理不尽 非常識 偽り 争い等
蹴飛ばし蹴散らす気持ちで創作道だ
今何時だ 逢魔が時か
だが 焦るまい
まあ 今日はこれくらいにしておこう

 

 

選評/環ROY

タイトルの「逢魔が時」という言葉を私は知らなかった。Wikipediaによると、逢魔時(おうまがとき)、大禍時(おおまがとき)とも書き、昼と夜の移り変わる時間、つまり夕刻を指す言葉らしい。魔物に遭遇したり、大きな厄災を被ると信じられていたことが由来なのだそうだ。砕いて言うならオバケが起き出す時間、といったところであろうか。
ふと鏡を見ると、背中が曲がっている気がする。普段、意識に昇ってくることのない、深層に眠っている、なにか重さを持つ記憶が原因なのではないか、、、という違和感。ここが起点となる。
次にフォーカスは心理へと移動する。内省が始まる。そしてまた身体を鑑み、内省へ向かう。そしてまた身体へ。この往復は、テキストの量以上に、何度も繰り返されているように感じられ、対話を連想させる。心と身体のやりとりはセラピーのようだ。
ここまで、悲観にも楽観にも偏らないための注意が払われていたが、終盤に向けて徐々に語気が荒ぶり、感情の張力が増していく。中庸で在り続けるのは難しい。留まるためにはエネルギーが必要なのだ。
直後、「今何時だ 逢魔が時か」と遮るように跳躍する。魔物は自身の内面から産まれ出るという冷静な知性と、感情に偏りが生じ始めたことは、魔物の時間のせいだ、と転嫁するいじらしさの対立が、読後に不思議な軽やかさを作り出す。
このセラピーは、これまでもずっとやってきたし、今後もずっと続くのだ。同じ創作者として共感を覚えた。