あの日、あの子が閉じなかった かっこ の中で
わたしは今日も目を覚ます
世界の鮮やかさのわりにはひんやりとした
教室の中で
あの子が口に出した かっこ と
続く、かっこの外には出られないひともじひともじ
(今、あの子はかっこを閉じなかった。)
その隙に、体を滑り込ませる
閉じられないままのかっこの中に
わたしの体を滑り込ませる
かっこの外には出られないけれど
たしかにあの子の口から吐かれたひともじひともじに
わたしはそっともたれかかる
もたれかかって、時折離れる
そのままそこにいる
口から吐き出された かっこ が
閉じられないまま
口から吐き出された かっこ が
閉じられないまま幾年月
今日、こうして眠りにつこうとするこの瞬間も
明日、昼食のからあげに酢をまわしかけるその瞬間も
わたしはあの日のかっこの中にいる
閉じられなかったかっこの中にいる
そこに閉じ込められているでもない
そこから落っことされるでもない
無論そこにしがみついているでもない
とじかっこを探そうとするでもない
ただただ閉じられないでいるまま
ゆるやかな山の形をした音の中に
ただただ閉じられないでいるまま
選評/穂村弘
あの日
遠い昔の「教室」で、ささやかすぎる出来事があった。教科書を「音読」していた「あの子」は「かっこ」と云った。でも、「とじかっこ」を云わなかった。云い忘れたのか。云わなくてもいいと思ったのか。その時、「閉じられないままのかっこの中」に「わたし」は「体を滑り込ませ」たのだ。その日からずっと、「わたし」は「あの子」の「かっこ」の中にいる。でも、「あの子」はそんなことはぜんぜん知らないんだろう。時間と他者と自分の関係とは、けれどもそういうものかもしれない。
詩の流れの中に現れる「世界の鮮やかさのわりにはひんやりとした/教室の中で」というフレーズの臨場感が素晴らしい。また、「明日、昼食のからあげに酢をまわしかけるその瞬間も」の具体性も。この部分は、どんな「瞬間」を選ぶかが大事なところだと思うのだが、うまくいっているようだ。遠い未来の或る日、何かの偶然から「わたし」が「あの子」と再会するところを想像する。その時、「あの子」の口から不意に「とじかっこ」が飛び出してきたら、どうしよう。