紀元前12世紀につくられて、北イタリア最古の街ともいわれるパドヴァ(Padova)は、ヴェネツィアから電車で30分ほどですが、ここには、世界最古の植物園といわれるオルト・ボタニコ(Orto Botanico)があります。もとはパドヴァ大学の薬草園でした。
パドヴァ大学は1222年設立の、イタリアで2番目に古い大学です。各地から、きらめく頭脳や才能が、どれほど集ったことでしょう!
近代医学以前は、薬はほとんど植物からつくられていましたから、この薬草園はさぞや重要な場所だったに違いない! そう思うと、植物好きさんにはたまらない場所に違いありませんね。きっとどきどきすることでしょう。
16世紀に設立された当時の、そのままの様子で保たれているというのですから、貴重です。花壇は、円形に整えられた中心から四方向へ、それぞれのスペースに分けられています。その中心に水の湧く泉。これは古代の世界観、宇宙と人間の関わりを表しているのだそうですよ。
小さな水の音に、しばし瞑想へ誘われます。悠久の時は水の流れのように、絶えることなく続いていきます。
さて、水辺は精霊の好む場所ですが、水底から生出でるロータス(蓮)は、ギリシア神話ではこんなふうに語られます。
まだ一歳にもならない乳飲み子を抱いたドリュオペが、斜面を下りて、湖にやってきます。湖のそばにはロータスが、赤い花を咲かせていました。そのときドリュオペは、子どもをを喜ばせようと、この花を摘みました。
ところが花からは赤い滴がしたたり落ちて、枝もぶるぶると震えだしました。じつは、ローティスというニンフ(妖精)が、葡萄園や羊飼いの守護神であるプリアーポスから身を隠すため、この植物に身を変えていたというのです。
ドリュオペは驚いて帰ろうとしますが、足が動きません。今や足の代わりに根が生え、そこから上へ上へ、どんどん樹皮が体を覆っていきます。
顔だけがやっと残っているときに、彼女は言い残しました。
「どうぞこの子を乳母に預けてください。
そして私の木の下で乳を飲ませてください。
この子が言葉を話せるようになったら、木へ挨拶させて、
この木のなかにお母さんが入っているの、と教えてください。
でも湖には気をつけて。
そして、木から花は摘まないで。
木々はみんな、女神さまの身体なのだから、と教えてください」
言い終えると、顔も口も、すべてが樹皮に覆われてしまいました。
写真はオルト・ボタニコに咲いていた睡蓮ですが、この話のロータスが、私たちの時代のロータスと同じなのかはわかりません。木というので、別の植物なのかもしれません。不明なようです。
ところで、ヨーロッパの中世僧院医学、薬草学は、教会や修道院を中心として発展しました。修道院の庭で薬草を栽培して、薬をつくって病人を治療していたのです。
フィレンツェにあるサンタ・マリア・ノヴェッラ(Officina Profumo-Farmaceutica di Santa Maria Novella)は、世界最古の薬局といわれて有名ですが、ここパドヴァのサンタントーニオ聖堂(Basilica di Sant’Antonio)にも、感じのよい薬局がありました。
古くからの叡智を大切にして、今へ、さらに未来へ、引きつぎ続けるということ。その静かな美しい知性を、美しく整えられたキオストロ(柱廊に囲まれた中庭)で慈愛のように感じます。
パドヴァにはジョット―の、それはそれは美しいフレスコ画の描かれた、スクロヴェーニ礼拝堂(Cappella degli Scrovegni)などもありますが、今回は植物の話ばかりでしたね。
私たちは今、大変困難な時代に向きあっていますが、人間の築いてきたすばらしい文化や壮大な歴史、美しい世界への、敬意と、そして感謝をこめて、この連載を続けていきたいと思います。
次回は、ヴェネツィアとパドヴァの間を流れる運河沿いに残る、貴族のヴィッラ(別荘)を訪ねましょう。