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90s in Hanatsubaki

2019.01.22

第4回 Japanese Beautyを求めて、HIROMIXと出会う その1

文/林 央子

写真/細倉 真弓

1995年の『花椿』 合本をめくってぱっと開いた、2月号表紙内側の見開きには、「SHISEIDOと文化」欄にメーキャップブランド「インウイ」のカラー・クリエーションをしたメーキャップ・アーティスト、ケヴィン・オークィンの取材記事がのっている。この欄はわたしが担当していたので、自ら取材して書いたものだ。

ケヴィンはこう語っている。
-----「私は子どものころ、テレビを見ていて本気で『オリエンタルになりたい』って思っていたんです。黒い髪に、ペールスキン。黒い瞳には、いつも憧れていました。ダークでリッチで、とても神秘的。逆にブロンドで青い瞳なんてすごく表面的で深みがなく、単純に思えたんです」

-----「私が育ったルイジアナはアメリカでもすごく田舎で、保守的だったんです。誰もが人と違うことを恐れていて、違うことは悪いことだと思われていた。でも私は、10代のころから周りとの違いを自覚していました」

-----「80年代、アメリカの政治は非常に保守的で、ユースカルチャーは抑えつけられていました。重苦しい空気のなかで、何か極端でエキサイティングなことをファッションで表現したいと思って、細いまゆ毛を提案したんです。そうしたら、みんながまゆ毛を細くするようになりました。でも提案するのは私でも、選ぶのは女性です」

-----「私は、女の人が自信をもてるような手助けがしたい。自信をもてないと、すべての可能性を逃してしまうでしょう。自分が美しいと思えるときに、人はほんとうにしたいことができるようになるんです」(誌面より引用)

その記事のとなりには、表紙のスタイリストである山本ちえさんが、大きな笑顔で写っている。当時の『花椿』の表紙は折り返し仕様で内側まで続いていて、扉をひらくとメインカット以外のカットが掲載されている。しばしば、撮影の舞台裏を見せるような写真が掲載されていた。

左側のページには、平山景子さんの「トレンド」コラム。ファッション写真にフェティシズムが散見されるようになった時代性を語っている。リードには「ニューヨークの写真家、ナン・ゴールディンと話していて面白かったのは、“セックス”がファッション化しているということだった。セクシーでグラマラスなモデルたちは、挑発的なポーズで私たちを見据えている」とある。歌手のマドンナが、スティーブン・マイゼル撮影による写真集を『SEX』という題名で発売したのは92年秋のことだった。

95年『花椿』の表紙撮影、「SHISEIDOと文化」欄、そして「トレンド」コラム。これらは編集部のなかでも別々の人が担当していて、編集会議で内容を共有はしているものの、お互いにそれぞれがその月に進行している欄の内容を、知り尽くしているわけではない。雑誌が刷り上がってはじめて、自分のつくった記事と、他の記事との組み合わせに気づくのだ。どの雑誌の編集部でも、多かれ少なかれそんな感じだろう。

一方読者は雑誌を開いたときに、それらの情報を一度に目にして、自分にとっての必要な情報を取捨選択して、読み解いていく。ケヴィン・オークィンが語ったことと、隣に写っている黒い髪の日本人スタイリスト、山本ちえさんの笑顔に関連性を見出す人も、なかにはいるだろう。左のほうに目線をうつしてナン・ゴールディンの言葉もあわせて読み解くと、95年という時代性についての地図が、うっすらと見えてくるような気がする。

ただし、それは、当時編集者たちが意図していたことでは、必ずしもない。そのはずだ。けれども、長い年月がすぎてながめてみると、これらの3つの要素には、くっきりと共通項をみてとることができる。その共通項は、ひとつの雑誌をつくるために集まってきている人々が、その雑誌にこめて発信したいと志向している方向性であり、雑誌のテイストといえるのではないかと思う。読者はそこに信頼をおいたり、愛着をもったりする。

「雑誌」の面白い部分は、この「雑」の部分にこそあるのではないか。「入り交じる」「まとまりがない」「いろいろの」。あれとこれが隣にあって、必ずしも一つの趣味性に収まらない。時代性という横軸のなか、すこしずつ異質なものが一緒に収まることで、暗黙のうちになにかの方向性を示す。ときにそれは、つくり手の意図をこえて大きな波をうみだすこともある。

わたしが88年に資生堂に入社し『花椿』の編集部に所属して、最初に担当した仕事は、商品カタログのページだった。そして、当時編集長だった平山景子さんの「ビューティー」ページの撮影にも、立ち会うように言われた。数年して、商品カタログのページが『花椿』からなくなったのだが、当時の会社的ないきさつはよくは、わからない。けれども化粧品会社のつくる雑誌である『花椿』においては、あたらしいファッションの流れを視覚的にとりこんだビューティー・ページやビューティー特集は、必須の存在だった。90年代になるとすでに、メーキャップはその人の個性を引き立てるものという考え方は確立していたし、すでに化粧法の情報は世間にあふれていたから、『花椿』は化粧にかんする実用的な情報発信から一歩離れて、「美とは何か」を広い視野から追求するような記事や、ファッションの最新情報の発信に重きをおいていた。

ところが、自分がビューティーの仕事を担当している理由を頭では理解しているものの、個人的にそれはまったく不得意な分野だった。資生堂の社員として、ビューティー特集をつくりながら「メークをする理由は何か?」についても考えずにはいられなかったし、平山さんのビューティー・ページ撮影では、無の状態から美しいイメージが立ち上がっていく場に立ち会って、毎回いたく感心していたけれど、自分がその手のディレクションができるとは到底、思えずにいた。とくに、日本の会社である資生堂にいて、白人のモデルをつかってビューティー・ページをつくることの意味は、どこにあるんだろうという思いを振り払うことができなかった。当時、ファッション写真は白人モデルで撮るものと、みんなが思って雑誌をつくっていた。

そんなわたしが衝撃をうけたのは、91年に高橋恭司さんが表紙を撮影した雑誌『CUTiE』の登場だった。街中でたくさん見かけるような、ちょっとカッコイイ日本人の女の子が表紙になっている。まさにそのイメージは、90年代の日本に到来するストリート・ファッション文化の先駆けだった。わたし自身『CUTiE』という雑誌をよく買うようになり、愛読するようになっていった。雑誌が発しているメッセージは、「自分が近づくことはできないと思われる肌の色の違う人に、憧れなくていい。日本人の女の子って、素敵なんじゃない?」というものなのかな、と読み取った。そこには、自由で楽しそうな世界が拡がっている気がしていた。
 
93年4月号から小俣千宜さんが編集長になり、平山さんは編集長をはなれた。長年、『花椿』の編集を通じて人脈を拡げられていた平山さんは、「ザ・ギンザアートスペース」セクションのリーダーに就任した。平山さんが不在のところでビューティー・ページは、わたしが担当することになった。当時は『CUTiE』全盛期という文化背景もあって、94年に入ると、わたしはテーマによっては、日本人モデルで撮影をするビューティー・ページの企画を立てた。それは、当時の上司を、熱心に説得しなければ、実現できない企画だった。また人種のことだけではなく、資生堂の媒体としてはどんなメークも映えそうな、左右対称でバランスのとれた端正な顔立ちのモデルさんにお願いすることが、当たり前の流儀とされていた。そんななかでわたしは、94年7月号のBeautyコラムで市川実和子さんにモデルをお願いした。編集部ではいつも、暦の1月には4月号を入稿し校正する、というように、3ヶ月先の月刊誌をつくるペースですすめていたから、このページの企画を立てて撮影していたころは、2月か3月の早春だったはずだ。この時わたしは、かなりの冒険に踏み出した気持があったはずだった。というのも、実和子さんは『CUTiE』の看板モデルだったから。

そのころ、わたしの思いとは別に、『花椿』編集部のなかでは、パリ・モードの世界は「美し」くて、ストリート・ファッションは「汚い」ものだ、とよく、言われていた。わたしはそれに、まったく同意できなかった。いろいろな世代の人間が所属しているひとつの雑誌の編集部では、そうした感覚のズレは、よくある話ではないだろうか? わたしが逆風のなかで「アニメの少女の可愛らしさ」や「70年代風メーク」を切り口にした、日本人モデルを起用したビューティー・ページ(94年10月号、94年12月号)をつくっていたころ、ホンマタカシさんと出会うことになった。

ストリート・ファッションといえばロンドンが本拠地で、そこから発信される雑誌『i-D』や『THE FACE』は、編集部が購読していたのでかかさず見ていた。ホンマタカシさんという名前を横文字でみかけた。日本人でも『i-D』に撮影している人がいるんだ。すごいなぁ。と思っていたら94年のある日、当時『花椿』で連載をしていたホウキカズコさんの紹介でといって、ホンマさんが編集部を訪ねてきてくれた。ホンマさんは『流行通信』や『CUTiE』でもすでに仕事をしていて、いつかお仕事ができるといいな、と思っていたが、なかなか作家性の強い人にお願いできるページが『花椿』にはない。ホンマさんは、ほんとうに素顔に近いような状態で女の子を撮影する作風なのに、資生堂の媒体であればそういうわけにもいかない。そのせめぎ合いのなかで、相談を重ねながらわたしが担当していたインタビューページの白黒ポートレート写真や、資生堂のメーキャップ・アーティストが作品的なヘアメイクをするビューティー・ページで、すこしずつ仕事を一緒にするようになっていった。

そのホンマタカシさんと『花椿』での初めてのお仕事は94年の夏、インタビュー欄での下條ユリさんのポートレート撮影(94年11月号)だった。恵比寿の事務所で、自分の絵の前で床に寝転んだユリさんを、ホンマさんは三脚を立ててとても短時間で撮ってくれた。
 
編集部の所属している企業文化部では同時進行的に、平山景子さんのザ・ギンザアートスペースのグループが、ナン・ゴールディンとアラーキーの写真展「TOKYO LOVE」を準備していた(94年11月14日〜12月25日「世界的に注目される2人の写真家のコラボレーションによる写真展。90年代の東京を捉えている」と95年1月号の『花椿』が報じる)。ホンマさんは当時、その写真展のメイキングとして、ナン・ゴールディンの来日や2人の撮影現場の記録写真を撮る仕事を請け負っていた。またそのプロジェクトに触発されてホンマさん個人のプロジェクトとして、10代の女の子を街中で撮影する「東京ティーンズ」に着手していた。
                                                    (第5回に続く)

林 央子

編集者

1988年に資生堂に入社以来、2001年に退社するまで、花椿編集室に所属。入社時の名物編集長、平山景子さんやアートディレクターの仲條正義さんから編集のいろはを学ぶ。古き良き資生堂宣伝部の自由な雰囲気や、銀座という独特な風土の中で国内外のクリエイターと交友を深めた。フリーランスになってからは雑誌などに執筆するかたわら、個人雑誌『here and there』を立ち上げる。2019年から2年間、ロンドンで生活し美大セントラル・セント・マーティンズで展覧会研究に着手。著書に『つくる理由』(2021年)、『拡張するファッション』(2011年、のちに同名の展覧会になって水戸芸術館現代美術センター、丸亀市猪熊源一郎現代美術館へ巡回)ほか。『here and there』 最新号のvol.15は7月1日発売。本連載をまとめた書籍は近日刊行予定。(Amazon.co.jpにて予約受付中)。(画・小林エリカ)
http://nakakobooks.seesaa.net/
https://hereandtheremagazine.com/

細倉 真弓

写真家

東京/京都在住
触覚的な視覚を軸に、身体や性、人と人工物、有機物と無機物など、移り変わっていく境界線を写真と映像で扱う。立命館大学文学部、及び日本大学芸術学部写真学科卒業。写真集に「NEW SKIN」(2020年、MACK)、「Jubilee」(2017年、artbeat publishers)、「transparency is the new mystery」(2016年、MACK)など。
http://hosokuramayumi.com