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90s in Hanatsubaki

2022.08.05

第23回 最終章 物質文化を超えて。時代の変化のきざしを、ファッションから見つける その3<最終回>

文/林 央子

写真/細倉 真弓

前回記事からつづく。

もう一つは、先日日曜日 の朝Instagramを開いて飛び込んできた、『花椿』の1998年と1999年の合本の紹介記事。小俣千宜 さんが編集長になってから数年たって、それまで社内の資料保管用に制作していた、一年分のバックナンバーを一冊に綴じた上製本、いわゆる「合本」 を、対外的にも販売できるものにしていこう、という動きが出てきた。ソフトカバーにして仲條正義さんに合本用の表紙をデザインしてもらい、興味をもってくれた書店等で限定500部販売していたもので、96年からつくり始めていた。

1999年合本。

この連載で「98年の『花椿』」に注目するコラムを書いている期間に、その時期の『花椿合本』が、約25年後のSNSで紹介されているということも奇異なことではあったが、関係者かとても熱心な読者しか所有していないと思われるその印刷物が、ロンドンで最も注目されているアートブックショップのtenderbooksのサイトに上がっていたのだから、私の驚きはかなりのものだった。留学中、その店に同級生のエルヴィラと誘い合わせて行ってみたけれど、あいにく定休日で、外からエルヴィラに記念写真を撮ってもらう、という観光客のようなことをしたくなるくらい、その店はロンドンのなかでも特別な存在だった。

tenderbooksの紹介文はこうだ。
'Two huge annuals compiling issues of Shiseido’s impressive corporate culture magazine Hanatsubaki that began in 1937 and continues to this day. Only 16 Hanatsubaki annuals were published from 1996 to 2011. Gorgeous production with the 12 issues of the magazine assembled into sections that begin with a double-sided fold-out illustration like a poster. The pages feature fashion reportage from the Paris shows, health and beauty, contemporary Japanese art and culture. While many of the features promote Japanese emerging artists and designers the magazine also recruits the coolest figures on the international scene. Included here are a gothic London shoot styled by Stephen Jones, interviews with Sylvie Fleury and Harmony Korine as well as photo essays by Mark Borthwick and Wolfgang Tillmans, to name a few. Plus of course plenty of Shiseido’s iconic styling.'

(日本語訳)
1937年に始まり、今日まで続く資生堂の印象的な企業文化雑誌『花椿』の合本2冊。 1996年から2011年にかけて発行された『花椿』合本は16冊のみ。ポスターのような観音で始まる雑誌を12冊分束ねた、豪華な作品。 パリコレのファッションルポルタージュ、健康と美容、日本の現代アートと文化が掲載されています。 日本の新進アーティストやデザイナーを伝える一方で、国際的なシーンで最もクールな人物を紹介している雑誌です。 ここに含まれているのは、スティーブン・ジョーンズがスタイリングしたゴシック様式のロンドンのファッション撮影、シルヴィ・フルーリーとハーモニー・コリンのインタビュー、マーク・ボースウィックとヴォルフガング・ティルマンスのフォトエッセイなどです。 それに加えて、資生堂の象徴的なスタイリングもたくさんあります。

SNSで自分の手がけた本が紹介されているのを見つけることほど嬉しいことはないけれど、25年という、四半世紀のタイムカプセルが現れたようなこの対面は私の頭を真っ白にした。あわてて、ロンドンで出会った友達7人くらいにメッセージで「これが私がやっていた雑誌なの!」と伝えた。『花椿』を知っているファッション関係者から、21才、23才という若者の、雑誌を同時代のものとして知らなかった同級生まで。スティーブン・ジョーンズと撮影したゴシックのストーリーの撮影場所は、私たちが通っていた美大セントマーティンズのすぐ近く、キングス・クロス・セント・パンクラス駅の駅舎をつかったあのホテルだよ! と、もし同級生が目の前にいたら、興奮して言いたくなっていたと思う。

ともあれ、みんなから返事がきて、一通り興奮が冷めた頭で考えたことは、Instagram上にあの表紙が出てきたときに、自分が思ったこと――「ここに私がいる!」と感じたことをめぐる感慨についてだった。

雑誌というのは、それをつくる編集者が自分を投影しすぎるべきではないという暗黙のルールが90年代はまだ生きていた。そこに現れたインディ雑誌『パープル』は、92年秋に創刊された創刊号が、編集長エレンを思わせる黒髪のボブの女性の後ろ姿だった。あえて、彼女を想起させるイメージを登用したと思えるその雑誌の黎明期には、編集長であるにもかかわらず、エレン自身がイメージの順番を指示したり美的な方向性を決めるアートディレクターとして機能していたし、さらに自分も撮影者や被写体として時にページに参画していて、旧来の感覚での「編集者像」を壊す活動を行っていた。2000年以降インターネットとともに訪れたのはブロガーの時代。誰もが自分をさらけ出し、個を出すことの競争の時代がメディアに訪れた。それ以前の時代の「雑誌の編集者は自分を出し(すぎ)てはいけない」というカッコつきの、個の出し過ぎを制限する抑圧が、私にとっては疑問の対象だったし、同時にブロガーの時代にあっては、ただ出せばいいものでもないのではないか、という疑問も抱いた。

98年の『花椿』の表紙を撮影していたのは、ホルスト・ディックガーデスで、撮影はパリで行い、スタイリストやヘアメークもモデルもパリで見つけたチームで行っていた。ホルストは『花椿』とのつきあいも長く、また当時人気が出ていたインディペンデント・ファッション誌『セルフサービス』でもよく撮影していた、中堅ファッションフォトグラファーだった。とくに名前が華やかに知られたスター的な存在ではないけれど、職人的にとても良いファッション写真が撮れる人だった。

当たり前だけどファッション写真家を名乗るには、ファッションや服のことがよくわかっているかどうかというのが必須条件だ。けれども天才的なファッション写真家というように世界的に名前が出る人は、その文化のなかでの当然の前提を壊してくる存在でもある。たとえば前々回のコラムで紹介した98年5月号の「Design Today」で撮影してくれたマーク・ボスウィックなどはそのタイプで、90年代終わりには、彼が提示したとてもシンプルなファッション写真、椅子にヘアメークもないほぼ裸にちかい女性が座っているイメージ、が当時のファッション写真界のなかでかなり広い面積を占めていた期間があることを、覚えている人もいるのではないかと思う。服を着ていないのになぜファッション写真なんだろうという、当然の疑問が出てしかるべきだけど、そのようなものを突破しても前に出てくるパワーのあるイメージというものが、時代時代に出現していたことは興味深い。

日本から距離をおいて見ていると、前提を壊した天才の存在以外になかなかリーチできないことから、ファッション写真も、誰かが壊したあとの想像上の遺跡を、点と点でたどるしかない。けれどもその点と点をつなぐ線は確実にあるわけで、誰かが突破した後の地固めを誠実にこなす人たちもたくさんいる。実際に「仕事」を一緒にするとなると、そうした技術をしっかり体得している、いわば職人的な技能を持っている人のほうが、こちらの要望に応える引き出しをたくさんもっていたりする。ホスルト・ディックガーデスはパリに住んで長年『花椿』のファッションデザイナー紹介ページでスタイリングを行ってくれた瀬谷慶子さんが見つけてきて平山景子さんに紹介してくれた写真家で、その眼力の確かさと技術の細かさではピカイチだよね、と私は瀬谷さんとよく話していた。

1998年の合本。当時の表紙撮影はホルスト・ディックガーデス。

そのような確実な技術や眼力と、スター性というものは必ずしも一致しないのか、表紙を撮る人となると、なかなかホルストのようなタイプは登用されにくいことはあるのだが、パリコレレポートを私が書いたりデザイナーを取材する過程で、パリの新世代の写真家やスタイリストの媒体への貢献度が高まるにつれて、ホルストが表紙を撮る1年間というのがあったと思う。それが、1998年だった。続く1999年は、私がパリコレ取材などの場で出会う新人デザイナーのつくる服を、取材のタイミングでデザイナーに直接依頼して、服を東京に送ってもらい、撮影は東京のスタジオで行おう、というアイデアを仲條さんが提案した。「撮影は、ホンマ君で」。

ホンマさんと私は、この連載にも書いてきたように、いわば、日本人の女の子をファッション写真の被写体にする連盟のようなものから、 タッグを組んで撮影に臨むことが多かった。『花椿』のビューティーページですら、資生堂『花椿』の誌面であるにもかかわらず、私が担当した当初はモデルは白人女性のみというのが暗黙のルールだった。なぜなら、「ファッション的」でありたいから。けれども、日本にいても、 日本人を被写体にして「ファッション的」なイメージをつくれるのではないか。それを、日本のメディアがやらなかったら、世界中の誰もやるわけがない。当時の東京では、『CUTiE』などを舞台にたくさん若い女性モデルがいきいきと活躍していて、その彼女たちを登用することの、何がいけないんだろうと私は思っていた。

同じ『花椿』誌面でも表紙などの大きな舞台にはなかなか辿り着けないから、まずは自分で決定できる場所から、インタビューコラムやビューティーページから日本人が被写体、あるいは取材対象として登場する割合を、オセロのコマを徐々に増やしていくように、増やしていく企画を提案していった。外国人前提で取材する人を探す、というコンセプトでインタビューのページを担当したときは、国籍や人種に偏りが出すぎないように、未知の国や文化背景から来た人をなるべく紹介できるように考えていた。そのような姿勢が、清恵子さんが3年間連載してくれたエッセイ「東欧通信」にも通じて行った。

1999年の合本。モデルは市川実日子さんで、表紙撮影はホンマタカシさん。

ある時代に、ある場所で当然とされる前提も、納得がいかないなと思えるルールは疑ってかかる、という姿勢は今の私にもつながる態度ではないかと思う。パリコレに行き始めた93年ごろはあまりに遠く感じられたパリのモード界というものを、さまざまな葛藤を経た上で、表紙の撮影を通して、日本人の写真家や被写体とファッション界をつなぐ接点の場をつくり出すことができた。そのことを通して、私はファッションを遠く離れた存在から、自分の日常に近いところまで引き寄せることができた。そのことが、99年の『花椿合本』の表紙の、市川美日子さんがスーザン・チャンチオロのTシャツとデニムスカートを着て微笑んでいるイメージに、集約されている。だからこそ、私が写っている写真なわけでもない99年の『花椿』の表紙を見たときに、「ここに私がいる」と感じる私がいたのだ。

メディアのなかに、そのつくり手の個があるべきではなくて、その存在は黒子としているべきで、覆い隠すべき存在だという旧来の考え方は、90年代に入ると、少しずつ崩されていったと思う。編集者でありながら写真を撮影し、一人で取材したルポルタージュを大判写真集として発表した都築響一さんが、97年に『ROADSIDE JAPAN』で木村伊兵衛賞を受賞したように。いつも表現の生まれる場にいて、表現のつくり方を熟知した編集者だからこそ、一人でいくつもの役割をこなすという、その後のブロガー世代の表現者のスタイルの先例を示せたのだろう。パリでも前述のように、エレン・フライスが実例を示していた。

『花椿』の原稿の書き方も、入社してしばらくの間は、とにかく個を消してジャーナリスティックにという方向で指導された。短い原稿が多い『花椿』なので、90年頃会社にワープロが導入されてからもよく原稿用紙に鉛筆で書いていたから、個を消す方向で上司にいつも訂正されて、幾度も消しゴムで消した。何度も何度も消しては書き直しながら、ある時私は、個の気配は消せるわけないんだ、とどこかで思い知った。なぜなら、そこに取材する「私」がいて、感じ、考えている私がいるから、文章が生まれるから。そこに気がついたからこそ、たとえ否定され続けたとしても「私の編集」を目指していこう、と決めた。そこで与えられたルールに、小さなnoを重ねていくことで。四半世紀ぶりに出会った98年の合本の表紙は、入社から10年間にわたる私のささやかな抵抗の積み重ねの結果を、一枚の写真で体現していた。だからこそ、突然の再会に強い感慨が押し寄せてきたのだ 。

<完>

林 央子

編集者

1988年に資生堂に入社以来、2001年に退社するまで、花椿編集室に所属。入社時の名物編集長、平山景子さんやアートディレクターの仲條正義さんから編集のいろはを学ぶ。古き良き資生堂宣伝部の自由な雰囲気や、銀座という独特な風土の中で国内外のクリエイターと交友を深めた。フリーランスになってからは雑誌などに執筆するかたわら、個人雑誌『here and there』を立ち上げる。2019年から2年間、ロンドンで生活し美大セントラル・セント・マーティンズで展覧会研究に着手。著書に『つくる理由』(2021年)、『拡張するファッション』(2011年、のちに同名の展覧会になって水戸芸術館現代美術センター、丸亀市猪熊源一郎現代美術館へ巡回)ほか。『here and there』 最新号のvol.15は7月1日発売。本連載をまとめた書籍は近日刊行予定。(Amazon.co.jpにて予約受付中)。(画・小林エリカ)
http://nakakobooks.seesaa.net/
https://hereandtheremagazine.com/

細倉 真弓

写真家

東京/京都在住
触覚的な視覚を軸に、身体や性、人と人工物、有機物と無機物など、移り変わっていく境界線を写真と映像で扱う。立命館大学文学部、及び日本大学芸術学部写真学科卒業。写真集に「NEW SKIN」(2020年、MACK)、「Jubilee」(2017年、artbeat publishers)、「transparency is the new mystery」(2016年、MACK)など。
http://hosokuramayumi.com