90s in Hanatsubaki
2022.01.14
第17回 『花椿』とは何だったか? その2:新しさの希求と「イン・ファッション」
文/林 央子
写真/細倉真弓
前回記事はこちらからどうぞ。
『花椿』編集部に入った当時、はっきりとメンバーのなかで共有されていた意識があるとしたら、それは「新しさ」の希求だったと思う。「新しくなければいけない」という意識があり、そこにリーチするためのツールの主軸がファッションだったのだ。編集部では平山景子さんも、小俣千宜さんも渡辺三津子さんも、もちろん私も、その信念を共有していた。当然、アートディレクターの仲條正義さんも。
その概念がどのように紙面化されていたかは、入社当時、平山さんが監修し、渡辺さんが実務を担っていた連載コーナー「イン・ファッション」を例に取って振り返ってみよう。ライバルは海外、という意識で編集を行っていた『花椿』だが、日本で毎月スタジオ撮影を行うという現実からすると、東京で借りられるファッション・アイテムは、パリやロンドンのプレスルームほど撮影用に借りられる服に多様性がない。情報の鮮度をあげるため、海外の情報をコンスタントに入手し記事に組み込む努力が注ぎ込まれていた。そうした編集者目線で選び取った情報はかならずしも服や靴に限らず、当時はまだ銀座4丁目交差点付近にあった洋書店「イエナ」で借りてきた書籍だったり、海外で人々が注目しているアーティストや展覧会のニュースであったりもした。
編集部のメンバーのあいだに「林さんは英語ができるから」という美しい誤解もあったためか、海外雑誌を読んで面白そうな話題を、平山さんや渡辺さんと共有する、という新しい仕事が生まれていた。アメリカの『TIME』や『Interview』、イギリスの『i-D』や『The Face』に加え、アメリカの『Vogue』や『Harper's Bazaar』などのファッション誌などから、面白そうな話題を見繕って提案する編集会議が組まれた。面白いと思うのは、目を通す洋雑誌はファッション雑誌だけでなく、たとえばアメリカの人物ゴシップ誌『People』も含まれていたこと。これは、じつは女性週刊誌も大好きという平山さんの、人への興味からきていた選択だったのではないかと思う。ここで読んだ話題がいつ、誰の記事に役立つのか、どれだけ誌面に貢献できたかはわからない。個人的には、この業務を通してアメリカの雑誌からカート・コバーンの話題やX-girlの登場、まだ映画を撮り始める前のソフィア・コッポラが写真を撮り始めていることなどに気づいたことが大きかった。その後私自身のキャリアにも関連していく興味の世界を広げていく体験になったのだ。
「イン・ファッション」の情報鮮度を上げるために、NYとロンドン、パリから毎月定期的に、先鋭的なファッション情報をセレクトして、写真と文章を添えて『花椿』向けに情報を送ってきてくれる現地のジャーナリストと契約していた。一番情報の鮮度が高かったのは、毎月ロンドンからチェリータが送ってくる分厚い封筒だった。70年代にヒッピーでならしていたというチェリータの経歴は謎に包まれていけれど、いつもA4の紙に綴られた英語の手書き文字、文章量も一定ではなく、良いと思ったものを気ままに選んで思いの丈を書き送る、というような、書き手の情熱がほとばしる原稿を眺めるのは楽しかった。NYのジョンとパリのセリアは毎月、話題は5件ずつでタイプ打ちの原稿だった。よりプロフェッショナルかもしれないが、ビジネスライクな感じがした。それでも現地のジャーナリストから、メールではなく毎月郵便で届く情報の束は、このページの生命線だという気がしていた。
彼らの選んだ情報を、掲載するかどうかは、編集部で決めていた。毎月、1日がかりで撮影するたくさんのファッション写真も、せっかく撮ってもかなりの数は没になり、掲載されるものはごく一部だった。それが『花椿』ならではの贅沢さだとよく外部の人に言われていたけれど、私にはこの膨大な無駄はなんとかならないものか、という疑問がつねにあった。モデルやスタイリスト、ヘアメークやカメラマンを総動員して1日がかりで行う大掛かりなファッション撮影は、もっと身軽で身近な行為にできないのだろうか? それは、いわゆる「ファッション写真」というものへの疑問だったと思う。
その後ホンマタカシさんと2000年に『花椿』の表紙撮影を行ったのは、そうしたファッション撮影全般への違和感が、撮影のカット数がごく少なくあっという間に終わってしまうホンマさんの撮影では無縁だったことも大きかった、と今になってみれば思うことができる。 ホンマさんとはビューティーやインタビューなど、当時の私が采配できたペイジでまず仕事のきっかけを得られ、その後時間をかけて、表紙や特集撮影をともにするまでに発展することができた。それまでの間、90年代後半の『花椿』表紙撮影ではホルスト・ディックガーデスやアネット・オーレルなど、パリやNYベースのファッション・フォトグラファーの表紙撮影にも立ち会っていっため、彼らの流儀とホンマさんの方法の違いがより際立って体験できたのだ。
私がフリーランスになってからは、しばらくファッション撮影と無縁の日々を送っていたけれど、2017年にイギリス帰りの若手アートディレクター、小池アイ子さんに取材の場で撮影されたとき、彼女の才能に一目惚れした。「イン・ファッション」の撮影で感じていた、スタジオで延々と続くモデル撮影や物撮り撮影へのもどかしさを、スマホ世代の感性で楽々と乗り越えるアイデアを、彼女がのびのびと発揮していたからだった。アイ子さん自身ファッションが大好きで、撮影するときに彼女の心が動いている様子が、撮影行為にも現れていた。おいしいものはすぐ食べたくなるように、撮りたいものは瞬時に撮ることも、ファッションをめぐる情報をつくる場では、重要なのではないかと私は思う。
ファッションはどこからくるのか?
話を『花椿』にもどすと、当時の編集部員や仲條さんの間に共有されていた魂の正体は、「新しさの希求」とともに、「ファッションへの信頼」であったと思う。そもそも、資生堂が『花椿』の前身である『資生堂月報』を創刊した当初から、川島理一郎などパリに住む画家がレポーターになって日本の女性たちにむけて綴る「巴里通信」(=パリのご婦人方のモード情報)があった。パリモードは、資生堂というブランドを維持するための重要なファクターとする会社の決断があったはずだ。アート、ファッション、ビジネスの三者が手を繋ぐという、近代的な着眼点が当時からあったことは、今考えても慧眼と言えるのではないか。
1960年代にプレタポルテのファッションウイークがはじまると、平山さんは自分も出張させてもらえるように、上司を説得したと聞くが、それは資生堂自体がファッションを重視して、パリ在住のフリーランスのファッションディレクターである、もとロシア貴族のメルカ・トレアントンと契約をしていたり、メルカの助力により1977年にパリ・モードを日本に紹介するファッションショー「六人のパリ」を実現するなど、会社としての流れも後押ししていたはずだと思う。メルカは1979年から『花椿』にパリコレレポートを寄せていて、わたしがパリコレに出張を始めてからも、彼女のパリコレのレポートはずっと誌面を飾っていた。そういう存在に敬意はもちろん抱いていたけれど、93年からパリコレに出張するようになった私自身は、権威的で旧時代的な側面もあるパリのモードというものへの反発をしだいに感じるようになっていった。
『花椿』のなかでは、仲條さんや平山さん、そして93年 からメルカに代わって平山さんや私がパリコレレポートを書く という舞台をつくった小俣さんですら、「モードはヨーロッパからくる高貴な文化で、日本のストリートにはないもの」という強固な概念があったと思う。平山さんと仲條さんの時代の『花椿』は、主軸をパリのモードに置き、時に日本の現象も取り上げる、という目線だった。80年代の『花椿』には「花椿衆」と題して、一般の人たちが被写体になるファッション特集が折に触れて組まれたけれど、これはのちに『CUTiE』のような媒体が出てくる時代の先駆けと言えたかもしれない。巷では、91年ごろから渋谷系の音楽への支持が広がり、95年に男性用ストリートファッション誌『smart』が創刊されるなど、ストリートファッションが日本独自の盛り上がりを見せていた。一般の人々をとりあげる企画をつくってはいたものの、リアルピープルのなかから生まれる流行現象を緻密に見て行く、というスタンスは当時の花椿編集部にはなかったので、私はそうした街や文化の変貌をうけて、『花椿』も伝統的な作り方から、少しずつ変えて行く必然性を感じていた。
私はデビュー直前のHiromixと知り合ったときに、彼女の大好きな60年代モッズファッションを通して、若者の間でモッズの音楽ブームと、テーラーにスーツをオーダーする行為の流行を興味深いと思い、「Watching」という連載コラムの題材として編集会議に提案した。この企画は通って、モッズシーンで知られる若者たちがオーダースーツを着ている現象を、Hiromixに撮影してもらうことができた。これが事実上、Hiromixの雑誌初仕事となった。
次回につづく。