一緒に出掛けるとき母はいつも、私の顔を見て言う。
「口紅、つけた?」
私はいつも、家を出る直前につけることにしている。まだ、と答えて支度を終えてから色のついた唇を見て、いいかんじと母が微笑むのは私が三十を超えた今も、変わらない。先日母方の実家を訪れた際、祖母がノーメイクの母に、唇ぐらい赤くしたらいいじゃない、と言うのを耳にして可笑しくなった。
思えば私が幼い頃から、母はメイクをすれば必ず、きっちりと口紅を塗っている。当時は「落ちにくいリップ」といっても今ほどでは無く、家で使うマグカップにも母のものだけうっすらと桃色がのっているのを、大人の女性の証のようで憧れていた。
そのためか、私が初めて施したメイクも口紅だった。ピアノの発表会か何かの折、ドレスでおめかしした私の唇に、母が自分の口紅を指先でとり、ちょこんとつけてくれたのだ。慣れない化粧品に、大人の女性は毎日こんな違和感を味わっているのかと一瞬気が遠くなったが、今と同じように私を見てにっこりと頷いた母にうながされて手鏡を見て、ほんのり色づいた唇が私全体を童話に出て来るお姫様のようにしてくれていることに、変な味などあっという間に忘れてウキウキしたのを覚えている。見た目だけではなく、中身もお姫様のように優しく柔らかく、ドレスを着ただけのときよりもずっと、一気に変身したように思え、自然と笑顔になった。まるで魔法だ、と思った。
メイクをするのが当たり前になった今、出掛けに口紅を塗ることで、私の中のスイッチはそれぞれのTPOに合わせた「よそゆき」モードに切り替わる。真っ赤なリップで和装をまとい、しっとりと。ボルドーにドレスで、少し妖艶に。元気なオレンジ色で思い切り遊びに。
毎朝、仕事に行くのに愛用しているのは、クレ・ド・ポー・ボーテのベージュ・ピンクだ。以前、撮影をしていただいた際にプロのメイクさんが、私に似合う色だと教えてくださった。肌になじみつつも少し血色がよくなるピンクがかったヌードカラーをまとえば、顔全体が途端に華やぐ。朝、まだ眠そうな目をしていても、一気に仕事に気分を移し、全身が目覚めるのだ。
「口紅つけた?」
今日も私はメイクの仕上げに自らに問い、にっこりと鏡を覗きこむ。映った私は似合う唇に自信を得て、元気に微笑み返してくれる。母が教えてくれた魔法を、私もいつの間にか一人で使えるようになったようだ。