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働く私の日常言語学

2023.10.05

Vol.5 漫画家・ヤマシタトモコさんと語る、どうしたって感情には追いつかない、ことばのはなし(前編)

文/小川知子

協力/清田隆之(「桃山商事」代表)

イラスト/中村桃子

恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表の清田隆之と、『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)の選者も務め、人から話を聞くことを専門とするライターの小川知子が、さまざまなフィールドで活躍する方々と「ことば」について多角的に考えていく連載。今回は『違国日記』がついに完結を迎え、映画化も決定した漫画家のヤマシタトモコさんと「ことば」について語り合いました。

あくまで個人と個人として描く、大人と子どもの関係

清田隆之(以下清田)  我々はこの連載で、ことばのむずかしさというか、ざっくりしたことばで表現してしまうけど、その内訳を因数分解してみるともっと細かなニュアンスが含まれているのではないか──といった問題についておしゃべりしながら考えているのですが、ヤマシタさんの漫画、特に『違国日記』はここで考えてきたこととつながる部分が多いと僭越ながら感じていて、いつも楽しみに拝読していました。

小川知子(以下小川) 35歳の少女小説家である槙生(まきお)さんが、両親を亡くした15歳の姪っ子の朝を引き取り、同居生活を送るわけですが、大人だからとて日々失敗したり、人を傷つけてしまったりすることが未だに多々あるので、槙生さんのような不器用な大人がいるということにすごく救われたんですね。

ヤマシタトモコ(以下ヤマシタ) 私個人としては槙生のパーソナリティは問題だとは思わないですが、世間からは「問題のある大人」と分類される人です。  

小川 問題はあっても、人と関わろうとトライはしていますよね。大人然としていない大人が、うまくできないなりに大人としての責任を果たそうとする姿が描かれているというか。

ヤマシタ そうですね。特に『違国日記』は、若い人たちに何を残したくないのか、何を渡したいのかということを込めた部分はあります。槙生は性格の割に友達がい過ぎるんじゃないかという指摘もあるんですが、いないと話が進まないので、仕方ないところはあって(笑)。槙生を好きになってくださった方が多かったですが、多くの方は現実に槙生が近くにいたら嫌いなんじゃないかと思います(笑)。

清田 この作品は、それ以上分割できない社会の最小単位という意味での“個人”をすごく大事にしているように感じます。人権の話も出てきましたが、基本的人権をみんなもっていて、ちゃんと自他の境界線があり、それぞれが独立した人間として存在している。そうした個人と個人が関係を取り結び、家族や共同体をつくったりしながらこの社会が成立しているみたいなイメージとしての個人を知ったのは、自分としてはけっこう大人になってからでした。なので、役割ではなく個人として付き合える大人がいたらよかったと憧れてしまったのですが、そういう関係を描こうと思ったのにはきっかけがあったのでしょうか。

ヤマシタ 無責任だからこそ自由なことを教えてくれる叔父や叔母というような、児童文学でよく読んだシチュエーションが好きで。私が通っていた中高一貫の女子校も、先生たちが必要以上に先生としての役割をしないというか、自分はもうここで手を引きますからねという態度を見せるような校風だったんですよね。よく言えば自主性に任せつつ、子どもという属性ではなく個人として扱うような、ある種冷たい大人像が子どもの頃から好きで。子ども語で話しかけてくる大人がすごく苦手だったんですよね。

小川 そういう大人への拒否反応って、家庭と世間の普通の違いから生まれる価値観なのかもと想像してしまうのですが、ご自身の家庭環境の影響もあると思いますか?

ヤマシタ うちは普通程度に問題もあるし、普通程度に問題がないような家庭ですが……割と母が昔から、「どの家庭にも歪みはあるし、問題のない家庭はない」みたいなことを言う人だったからかな。私が幼くてわからなくてもそういうことを言ってくるようなところがあって。10年ほど前からは、「日本語の固有語には愛ということばがないから、日本人は真に愛を理解していないのではないか」と言い出して。「それはお母さま、私を愛していないということですか?」みたいな不安が一瞬よぎりましたが(笑)。 慈しみや労りと表現したほうが理解できる、みたいな話でしたが。

清田 うちは過干渉タイプの母親だったので、そういう会話は想像できないかも……。

小川 私の母もどちらかと言えば、「あなたの選択はあなたのものだから自分で決めなさい」ときっぱり線引きするタイプの人だったので、小さい頃はそれなりにさみしさも感じていましたが、今となっては、槙生さんが朝さんに言う、「あなたがわたしの息苦しさを理解しないのと同じようにわたしもあなたのさみしさは理解できない」という態度は、一見冷たく突き放しているようで、すごく優しいというか誠実だなと思えるというか。

ヤマシタ 『違国日記』では、一般的に優しさとされるものが優しさのすべてではないだろうというような話もしたかったんですよね。

女同士だからできた、コミュニケーションの深掘り

小川 『違国日記』は、間違いなくフェミニズムについての漫画だと思いながら最後まで読んだのですが、フェミニズムというワードは出てきませんよね。大きなことばは使わないとか、単語ひとつで片付けたくないといった意識があってそうされたのでしょうか?

ヤマシタ 女性同士の連帯の話にしたいというのは、シチュエーションも何も決まっていない、一番最初の段階からの構想としてありました。が、そもそもフェミニズムについて知識があったり普段から意識したりしている人でないと、「フェミニズム」ということば自体、なかなか出てこないものでもあるなと思ったんです。なので、作中ではことばそのものは出てきませんが、もちろん、フェミニズムは私たちの生活と切り離せないことなので、そういう生活の中での話になっていきました。

清田 漫画を描くときのことば選びを、どのように意識されているのか気になります。

ヤマシタ 登場人物の語彙の範疇を超えないようにすることを一番気をつけています。例えば15歳の子どものモノローグだったら、15歳の語彙を超えないように。そこにどんなに壮大で複雑な感情が渦巻いていても、それを「むかつく」の一言だけでどう表現するかみたいな。ストレートなことばの中にも、何重もの感情のヒダが含まれているような表現が好きなので。

小川 言語化がうまくできないのが、10代のリアリティでもありますもんね。

ヤマシタ 現実には悲しいことですが、物語の中では、ことばの拙さやうまく表現できないということ自体にロマンを感じるんですよね。最終回で描いたようなことにもつながりますが、ことばを尽くす以上に我々のできることはないけれど、そのことばがどうしたって追いつかないものであるということに、物語の盛り上がりを感じるというか。

清田 朝さんの「むかつく」ということばの中に、ものすごくたくさんの複雑なニュアンスが含まれているけど、まだ拙い語彙しかもっていない朝さんのもどかしさをロマンと表現されているのに、ハッとしました。「愛してるって言えばいいじゃん」という朝さんのセリフもありましたが、そう言っちゃうと大事なものが切り落とされたりし、逆に何かを言い過ぎちゃったりするかもしれないなと。おそらく槙生さんは、その時々の状況や感情にフィットすることばを丁寧に探そうとしているような人に感じられましたが、時には一言でビシッと言ってほしいという朝さんからの要求もあるわけですよね。

ヤマシタ あのシーンに関しては、ネームを選出したときに担当編集の梶川恵さんが、「槙生のことばにできなさに対して、朝が甘やかしている」というようなことをおっしゃって、私は思ってもみなかったけど確かにそうだとも思ったんです。ことばにするのをためらうタイプの面倒くさい人間に対して、ストレートに感情的に、「その感情はざっくりまとめりゃこういうことでしょ」と言ってくれる人間の有り難さみたいな部分もあるし、そういう人が大きく世界を回してくれるのだとも思うので。

小川 槙生さんが朝さんの保護者ではあるわけですが、実は朝さんが槙生さんを支えている、助け合っているみたいな関係性ですよね。上とか下とかじゃなく、対等に。

ヤマシタ そうですね。私はそういう関係性も、昔からとても好きで。言語化を意識し過ぎるあまり、言語化に至れない人間に対して、竹を割ったように、例えば、「それはつまり好きってことでしょ」みたいなまとめ方をしてなんとなく丸く収まってしまう関係性というものが、すごく可愛く感じたりときめいたりする。そういう組み合わせの妙には、何があってうまくいくのかはわからないという面白さがありますよね。

清田 ああいう感情の機微を伴いながら交わすコミュニケーションって、男同士ではあまり体験したことがないように感じます。女性たちの関係をあまり美化しすぎるのもあれですが、憧れてしまうところが個人的にありまして。

ヤマシタ 「『違国日記』は男同士だったらもっとよかった」みたいな感想もチラッと目にしたことがあるんです。ただ、男同士でこのコミュニケーションを描ける気がしないよ私は、というのが正直なところあって。現実の男性のあり方に対してもそうだし、私の捉え方やそれを描けるかどうかということも、ある種、課題ではありますが。女同士じゃないとここまでしつこいコミュニケーションを成立させることはむずかしいし、男同士だとどうしても、家族、友人に収まる範疇だと、そこまでのコミュニケーションの深掘りはできないのではないかなと。それこそロマンスくらい相手を欲しがる動機がないと、むずかしいんじゃないかと感じますね。

小川 そうですね。叔父と甥の『違国日記』は、日本では現実的とは思えないかもしれない。

ヤマシタ 文化が違う場所にシチュエーションを置くとか、キャラクターのどちらかを日本の文化ではない人にするとかしない限りは、無理なんじゃないかな。あるいは、よほど突飛な人間と捉えられるくらいの人物にしないと。

お互いを許容する必要性ってありますか?

清田 前シリーズの「恋する私の日常言語学 vol.7」でも「responsibility(レスポンシビリティ)」ということばをテーマにしたことありますが、説明する力や応答する力が責任ということばの本質的な意味だと気づいていくような物語でもあるなと思って。責任を果たすこととことばにすることの関係を、ヤマシタさんはどんなふうに考えていますか?

ヤマシタ 私は口も回るほうですし、ふだんは割と軽薄に生きているので、ことばに詰まるみたいな経験がほぼないんです。嘘をつくと具合がわるくなるのでつかないですけど、その場しのぎの発言はできてしまうというか。作品を発表するときは責任について考えますが、自分が実際にしゃべるときは、もちろん誤解を与えないようには努めつつも、ほぼノリでやっていますね。

小川 会話は反射だから楽しいという側面もありますよね。その都度熟考していたら、ピンポンのように対話ができない場合もあるし。

ヤマシタ そうですね。反射で生きてます。友人たちを見ても、ふだんからよく考えている人がその場のノリで発するものがやっぱり楽しいのかなと思います。ひっかかっていた鬱屈した何かが出てくるというか。

清田 確かにそうですね。おしゃべりしたりとか、集まって食べたり飲んだりしながら取り留めのない話をたくさんしつつ、でもどこかでそれぞれの生活や哲学みたいな部分とつながっている雑談みたいなものが、この作品の中の魅力だなとも思って。

ヤマシタ 雑談シーンは、昔から描くのがすごく好きなモチーフのひとつなので、ほとんど意味がないように見えるかもしれないですが、読者の方が何か感じ取ってくれたらと思ってます。

小川 ヤマシタさん自身は、わかり合えないことを前提にそれでもことばを尽くそうとすることはありますか?

ヤマシタ そういうことが必要なシチュエーションが、私はそんなにないかもしれないです。結局のところ他人なので、お互いが納得する必要は特になくないですか? 例えば恋愛関係だとそういうことが必要になるのかな。私は恋愛関係をもたないので、別に友人相手だと、そこまでお互いを許容する必要はないですよね。どう違うか知っておけば十分というか。友人と喧嘩した経験もないですし、「全然考え方が違うね。理解できないわ。ウケる」みたいなやりとりが大半ですね。

清田 槙生さんと朝さんみたいに、一緒に生活する、となったらすり合わせが必要になってくるんですかね。

ヤマシタ まぁ、だから、誰とも一緒に生きないんですけどね(笑)。すごく好きな友人だったり、仕事相手だったりしても、お互いに越えない線があるじゃないですか。そこを越えるのは不可侵だという話ではなく、「単純にこれですごく心地いいコミュニケーションができてるなら、十分じゃない?」というふうに感じるので。人間に対して軽薄です。相手のことが好きでも、優しくしたり手厚く接したりできないので。別に優しくしたいとも思わないというか。

小川 ヤマシタさんを「優しい人」の枠に押し込めようとしているようで申し訳ないのですが、ついついこんな物語を描く人が薄情なわけがないと思ってしまうんですけど!

ヤマシタ それは幻想です(笑)。薄情だから、物語を描けるんだと思いますよ。例えば、人と人として誠意をもっておしゃべりをしていたとしても、その人がどんな人であったかみたいなことは忘れてしまうのに、その人の細かなことをいつまでも覚えていて、それを勝手に自分の漫画のキャラクターに投影してフィクションにするなんて、ひどい行為じゃないですか。でも、漫画家はみんなそれをやっているから、私も含めて。漫画家というのは本当にひどいやつらだなと思いながら、漫画家の友人たちをとても愛しています。私は、基本的に人間とおしゃべりしたり会ったりするのは好きですが、人間が好きだという感情と本当に嫌いだという感情が、寄せては返す波のようにやってくる(笑)。

小川 大抵の人は、人間が大好きで大嫌いなんじゃないですかね、たぶん。

ヤマシタ わかりません。多くの人は、そういうことをあまり考えないから、集まって生きていけるのではないでしょうか。

清田 話はまだまだ尽きませんが……後編では、笠町や塔野をめぐる男性性の問題、父親たちの不在、愛と暴力の関係など、『違国日記』に含まれるさまざまなテーマについて引き続き語り合っていきたいと思います!

ヤマシタトモコ
2005年にデビュー。2010年、「このマンガがすごい! 2011」(宝島社刊)オンナ編で『HER』(祥伝社刊)が第1位に、『ドントクライ、ガール』(リブレ刊)が第2位に選出される。『さんかく窓の外側は夜』(リブレ刊)は2021年に実写映画化&TVアニメ化。2017年から「フィール・ヤング」(祥伝社刊)にて丸6年にわたり連載された『違国日記』(祥伝社刊)は2019年、2020年に「マンガ大賞」にランクイン。「第7回ブクログ大賞」のマンガ部門大賞を受賞。最終巻となる11巻が去る8月に発売された。2024年春に実写映画化が決定。
IG:@tom_yam_yam
X:@animal_protein


小川知子

ライター

1982年、東京生まれ。上智大学比較文化学部卒業。雑誌を中心に、インタビュー、映画評の執筆、コラムの寄稿、翻訳など行う。共著に『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)がある。
https://www.instagram.com/tomokes216
https://twitter.com/tometomato

清田隆之

文筆家

恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。
1980年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。これまで1200人以上の恋バナを聞き集め、「恋愛とジェンダー」をテーマにコラムやラジオなどで発信している。著書に『どうして男は恋人より男友達を優先しがちなのか』(イースト・プレス)、『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)、『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社)、澁谷知美さんとの共編著『どうして男はそうなんだろうか会議 いろいろ語り合って見えてきた「これからの男」のこと』(筑摩書房)がある。近著に『おしゃべりから始める私たちのジェンダー入門~暮らしとメディアのモヤモヤ「言語化」通信~』(朝日出版社)、文庫版『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(双葉社)がある。
イラスト/オザキエミ
https://twitter.com/momoyama_radio

中村桃子

イラストレーター

1991年、東京生まれ。桑沢デザイン研究所ヴィジュアルデザイン科卒業。グラフィックデザイン事務所を経てイラストレーターにとして活動。装画、雑誌、音楽、アパレルブランドのテキスタイルなど。作品集に『HEAVEN』がある。
https://www.instagram.com/nakamuramomoko_ill/