「恋愛とことば」をテーマにした連載「恋する私の♡日常言語学─Ordinary Language School」。かつてオックスフォード大学で哲学を学ぶ人々を中心に「日常言語の分析が哲学者の中心課題だとする方法意識」という思考のもとうまれた「Ordinary Language School」(日本大百科全書より)。この思考にヒントを得て、数々の恋愛話を傾聴してきた恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表の清田隆之と、『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)の選者も務め、人から話を聞くことを専門とするライターの小川知子が、恋愛においての「ことば」をめぐる諸問題について語り合います。
意中の人や恋人となんだか上手くコミュニケーションが取れなかったり、すれ違いに悩んでいるあなた! その原因は「ことば」にあるかもしれません!
収穫、発見、利益……「何」ということばが表すもの
清田隆之(以下清田) 全然まとまっていない状態で話を始めてしまうけど、最近「何」ってことばが気になってるのね。恋バナや恋愛相談を聞いてると、例えば「デートに行ったけど特に何も起きなかった」とか、「結局あの人とは何もなかった」とか、そういうことばを耳にすることが多いのよ。
小川知子(以下小川) 確かに何気なく使っている表現ではあるかもね。その「何」が意味するところが気になるってこと?
清田 なんだろう……どういう点が引っかかってるのかな。自分から問題提起しておいてあれなんだけど(笑)。
小川 「何」は関係性が発展したかどうかを示しているのだろうけど、例えば、キスとかセックスとか、ダイレクトには言いづらいようなことの婉曲表現なのかな。他にも「最後まではしてない」とか「二人はそういう関係なの?」とか、とりわけ性にまつわることばは間接的に表現されることが多いし、ぼかしてるという意識すらなかったりするわけで。でも、うーん、清田くんが気になってるのはそういうことでもなさそうだね。
清田 あー、なんかちょっとわかってきた。「何もなかった」とか「何も起きなかった」って言うときの気分というか、その背景にある価値観みたいなものに自分は引っかかりを感じているのかも。
小川 それはどういうこと?
清田 そこで言う「何」って、特筆すべきこととか、予想外のこととか、価値のあることとか、そういったニュアンスを帯びていると思うのよ。収穫や発見や利益なんかも「何」にあたるものかもしれない。で、そういうものが得られなかったとき、あるいは事前の期待値を上回らなかったときに「何もなかった」とか「何も起こらなかった」という感覚になるのではないか……。
小川 ああ、なるほど。例えば、時間や金銭などのコストをふまえたうえで、効率がわるかった場合の「何もない」発言になるんじゃないかってことね。
清田 自分自身、例えば一日中子どもの世話に追われ、「今日は何もできなかったな……」みたいな気分になって落ち込むことがよくある。具体的には「仕事が進まなかった」とか「to doリストを消化できなかった」とかそういうことなんだろうけど、その背景には“生産性”とか“コストパフォーマンス”みたいなものの呪いが存在しているような気がして、それが「何」ということばに感じていた引っかかりの正体じゃないかと思えてきた。
豊かなディテールを切り落としてしまってない?
小川 生産性やコスパの呪いかあ。個人的には、他人が何を言おうと、「何もしてない」状態も含めて人生にむだな行動はないと思って生きているほうなので、あんまり考えたことないかも。仕事においてもし過剰に搾取されているとか理不尽に思える状況だったら、囚われてしまうかもだけれど。引っかかりを感じたということは、清田くんはそれをネガティブに捉えてるってことだよね。
清田 自分は生産性の呪いにめちゃめちゃ囚われてるなという感覚があり、それが長年の悩みでもあって……。いや、生産性自体を否定したいわけではないのね。恋愛の文脈で言えば婚活なんかが顕著だと思うけど、明確な目標があって、時間やお金を投資しているものに関しては、効率やコスパを追い求めるのは至極当然だと思う。何か収穫がなければ徒労感が残るだろうし、時間やお金をむだにしてしまったような感覚にもなると思う。
小川 確かにそうかもしれない。
清田 一方で、「何もなかった」ということばには乱暴な側面もあると思っていて。それを痛感するエピソードがあって、これは自分自身の体験なんだけど、大学生のときに片想いしていた女友達と飲みに行き、お互い酔っぱらって終電を逃し、彼女の部屋に泊めてもらったことがあったのね。床で寝ようとしたら「そこじゃ痛いだろうからベッドでいいよ」と言われ、一緒の布団に入ることになった。もちろんドキドキしたし、めちゃくちゃ期待もしたんだけど、アクションを起こして拒まれるのが怖かったし、信頼を得たかったというのもあって、そのまま「気をつけ」の姿勢で過ごしたのよ。そしたら翌朝、なぜか彼女が急に冷たい態度になって、それ以来メールも返ってこなくなってしまった。
小川 その話は前にも聞いたことがあったけど、まさに「一緒に寝たのに何もなかった」と形容されそうな出来事だね(笑)。
清田 そうなのよ。自分自身もそう思っていたし、この話をすると必ず「なんで何もしなかったんだよ」「彼女絶対に待ってただろ」みたいな説教を食らうハメになり(ほぼ男性から)、ずっと「何もできなかった」系の失敗談として記憶に刻まれていて……。
小川 うーん、私は失敗談だとは思わないけどな。彼女の気持ちがどうだったかはわからないし、実際にはいろんな感情が複雑に絡まり合って簡単に言語化できるようなものではなかったんじゃないかとも想像するけど、いずれにせよ、その場で性的同意を取るというアクションが双方から起こらなかったわけだから。お互い酔った状態できちんとコミュニケーションが取れたかもわからないという状況を第三者の視点で考えると、そのまま普通に眠ったことのどこが悪かったんだろうって思うけど。
清田 「据え膳食わぬは男の恥」みたいなことをめちゃくちゃ言われたのよ。目の前にいる人を“据え膳”と、セックスを“食う”と表現してるこのことばも大概やばいけど、そういう価値観を押しつけられまくったことでこの一件を長年ネガティブに捉えていた。でも、本当に「何もなかった」んだろうかって……。というのも、例えばあの日彼女はお風呂を沸かしてくれたんだけど、タイルの色がかわいかったこととか、貸してくれたジャージがピチピチだったこととか、緊張して全然眠れなかったときにずっと眺めていた天井の木目とか、相手が寝返りを打つたびに聞こえたシーツの音が妙に心地よかったなとか、目覚まし代わりにかかったラジオがJ-WAVEだったこととか、彼女の部屋から駅まで見知らぬ道を歩いて帰ったこととか、駅前で富士そばを食べたこととか、実際にはいろんなことがあったよなって思い直して。
小川 した、しないという結果じゃなくて、恋愛の醍醐味であるところの、感情の機微があったってことだよね。
清田 そう考えると、「何もなかった」デートにも実はいろんなディテールがあったかもしれないし、「何もできなかった」と思っている一日にも実際にはいろんなことが起きていて、それらを意味のないこと、語る価値のないこととしてバッサリ切り落としてしまうのはどうなんだろうって……。
生産性の呪いと「グラウンディング」の重要性
小川 今の話を聞いて思ったのは、「何もなかった」という物言いには“自己防衛”の側面もあるかもなということで。例えば、自分の話が退屈だと思っている人ってわりと女性に多くて、友達にも結構いるんだけど、彼女たちの話をつまらないと思ったことはないわけ。もちろん、ジェンダーは関係なく、話が得意な人、不得意な人はいるけれど、この社会には、「女の話にはオチがない」「女の話はぐだぐだ長い」みたいな過去から続く呪いや圧力が存在していて、実際にそう思ってる人たちもいまだに結構いる。そういう中で、「話がつまらない」とか「話がまとまってない」とジャッジされてきた経験から、「話し下手」という自己認識をもってしまい、予防線として「何もなかった」と簡単に片づけてしまう人も少なくないなって。
清田 なるほど。お笑い芸人やバラエティー番組的なカルチャーの影響を感じる話だね。
小川 「ネタになるようなことはありませんよ」って、ある種の自虐のように言ってる部分もあるかもしれない。おもしろベクトルだけでジャッジされてしまうと「もういいや」って心が折れたりするし。こういうネタとかオチを重視する感覚も清田くんの言う生産性やコスパの呪いとつながってる気がする。ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルが「資本主義はショウにすぎない」という話をしていたけど、物を生産するという行為がすべて見せ物だと考えると、私たちの人生すらインスタグラムやツイッターの投稿のように消費の対象となる。そこに価値が付けられて、数字で判断されたりするわけだからね。だから生産性みたいなものに囚われてしまうし、裏を返せば、見せ物としての価値がないものはむだで無意味と自分で判断し、自信を失ってしまうという考え方になっていくんじゃないか。
清田 そうか、だから自己防衛として「何もなかった」と言ってしまう。
小川 うん。そういう社会に生きる以上、生産性やコスパの呪いから逃れるのはむずかしいかもしれない。でも、さっき清田くんが言ったように、やはりどんな経験も「何もなかった」で片付けられるはずはないと思うんだよね。しゃべりながら記憶がよみがえったり新たな発見があったりってことも往々にしてあるわけで。それにはおそらく、「うまく説明してなんて思わないし、あなたの話を聞きたいから話してほしい」って受け止めてもらえる経験やそういう環境が大事なんだろうな。
清田 あー、それめっちゃわかる! ていうか、今の自分がまさにそんな感じだなって。俺は最初、今回のテーマをかなり低解像度のまま投げかけたじゃない? それで小川さんとおしゃべりしながら少しずつ話が広がったり深まったりして、自分がこのテーマの何に引っかかりを感じていたのかが見えてきた。話は飛ぶけど『弱いロボット』(医学書院)という本の中で「グラウンディング」という概念が紹介されていたのね。
小川 ヨガでもしっかりと地に足がついている安定した状態を、「Grounding」って言うよね。
清田 それは二足歩行にまつわる説明だったんだけど、我々は歩行をするとき、直立の状態から足を前に踏み出すじゃない?
小川 そうだね。
清田 そのとき身体のバランスはいったん崩れるわけだけど、地面がそれを支えてくれると信じているから、一歩前に踏み出すことができる。それで地面から返ってきた力を利用してまた一歩また一歩と進んでいくのが二足歩行のメカニズムらしいんだけど、著者の岡田美智男さんはコミュニケーションもこれと同じだと述べていて。どうなるかはわからないけど、相手が受け止めてくれるだろうと信じてことばを投げかける。その地面のような支えを「グラウンディング」と呼ぶらしいんだけど、今回のおしゃべり自体がそんな構造になっていたなと思った。
小川 そんな大それた意識はなかったけど、そう思ってくれたならよかった。これはライターの悪い癖なのかもしれないんだけど、昔、友人と話していたときに、インタビューでもないのに、「それって、こういうこと?」とわからないことに対して質問を投げかけていたら、「頭の中であっちかなこっちかなとか、まとまってない状態で話すことを楽しんでいるんだから、たとえ相手のことをもっと知りたいという理由であったとしても、言葉をよりうまく扱えるほうの人がより適切とされる言葉で言い換えることは、より声が大きい人によって会話がまとめられたり、片付けられてしまう構造と紙一重なんだよ」と言われたことがあったの。
清田 自分にとっても突き刺さることばだわ……。俺もそうやって質問してしまいがちなので。
小川 たくさん質問することで、その人に「うまく説明ができてない」というプレッシャーを与えていたかもしれないと思ったし、自分がわからないことが我慢できないのは私の問題で、わからないことを二人で共有していくことが対話というものだよなとすごく反省したんだよね。それもあって、出口がわからない会話をするのがおしゃべりの楽しさだし、それは話し手と聞き手が一緒につくり上げていくものだと考えている。
清田 不安なままだと「石橋をたたいて渡る」みたいな状態になってしまうもんね……。グラウンディングとは双方で支え合うものなのかも。安心して委ねられることのありがたみよ……。