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恋する私の♡日常言語学

2021.10.18

恋する私の♡日常言語学【vol.17】私たちを苦しめる“ハッピーエンド”の呪縛。その結末は本当に必要?

文/小川知子

協力/清田隆之(「桃山商事」代表)

イラスト/中村桃子

「恋愛とことば」をテーマにした連載「恋する私の♡日常言語学─Ordinary Language School」。かつてオックスフォード大学で哲学を学ぶ人々を中心に「日常言語の分析が哲学者の中心課題だとする方法意識」という思考のもとうまれた「Ordinary Language School」(日本大百科全書より)。この思考にヒントを得て、数々の恋愛話を傾聴してきた恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表の清田隆之と、『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)の選者も務め、人から話を聞くことを専門とするライターの小川知子が、恋愛においての「ことば」をめぐる諸問題について語り合います。
 意中の人や恋人となんだか上手くコミュニケーションが取れなかったり、すれ違いに悩んでいるあなた! その原因は「ことば」にあるかもしれません!

 

 

「めでたしめでたし」的な結末のリアリティ

小川知子(以下小川) 最近、いろんな呪縛をほどいていくようなエンタメ作品を観るにつけ、自分は意外とハッピーエンドの概念にとらわれていたんだなと気づくことが増えたので、今日はハッピーエンドという言葉について話せたらなと。

清田隆之(以下清田) 言葉としてはよく使うし、知らない人はいないと思うけど、個人的にちゃんと考えたことはなかったかも。

小川 物語の中では、誰かと結ばれるとか、結婚するとか、出産するとか、何かしら決着をつけることをハッピーエンドとして見せることが多くて、観る側としてそういうものを求めてしまうところもなくはないけれど、ひとつのイメージを“正解”として見せてしまう影響は意外と大きいというか。それを目指しすぎると、そこにハマらない人が苦しくなってしまう部分もあるんじゃないかなと。

清田 もちろん、ドラマで片想いを描いて成就しましたとか、苦しみを描いてトンネルから抜けましたとか、そういう前向きになれるような、希望が見えるような終わり方がハッピーエンドという言葉からイメージされるものだというのはわかるけど、確かにそれらを正解やゴールとして提示されちゃうのは抑圧的かもしれない。ひと昔前のドラマや映画なんかはそういうエンディングの作品が多かった気がするね。

小川 例えば1981年に放送された山田太一脚本のドラマ『想い出作り。』も、当時の結婚適齢期24歳を迎えた女性たちが、結婚までの想い出づくりに海外へ行こうとして詐欺に遭うところから親しくなる話だった。25歳過ぎたら“クリスマスケーキの売れ残り”と言われていた時代に。

清田 売れ残りってすごい物言いだよね。それだけ「女の幸せ=結婚」という規範が強く、ライフコースも限定的だったんだろうな……。まだまだその手の抑圧はなくなってはいないけど、曲がりなりにも「個人個人でそれぞれの人生や幸せがあるよね」という認識が広まってきた時代にあって、エンドの形が何をもってハッピーで、何がバッドなのかはわからない。それぞれ人による、状況によるとしか言えないわけで、物語を作る側にとっては、作品をどう終わらせるかはすごく難しい問題だろうね。

小川 「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」つまり「Happily ever after」が、おとぎ話の中でしか叶わないこととわかっていて、しかもいろんな幸せの在り方を選択できる私たちは、「めでたしめでたし」的な結末にリアリティが感じられなくなっている。映画『セックス・アンド・ザ・シティ』でも、キャリーがシャーロットの娘に「シンデレラ」を読み聞かせした後に、現実はこんなにうまくいかないと知っておくべきと諭すシーンがあったし。

清田 仮に誰かと結ばれたとしてもそれで終わりじゃないし、たとえひとつの関係性に終止符が打たれたとしても日常は続いていく。ある種の「結果」はもちろん重要だけれど、それ以上に日頃からコミュニケーションを丁寧にとったり、関係性を逐一メンテナンスしていくことのほうが現実においてはむしろ重要という意識は共有されてきている印象がある。

小川 気持ちにカタをつけたいときはあると思うし、つけること自体は悪くないと思うんだけど、そもそも他者との関係性のなかでどちらも無理せずにカタをつけるって、それぞれのタイミングも違うし、時間もかかるし、複雑で大変なことだもんね。

清田 いきなり話は飛ぶけど、こないだ、ある土曜日の夜に、仕事をしてたらいきなり右耳が気圧で塞がるみたいな感じになったのね。

小川 突然聞こえなくなったってこと?

清田 そうそう。痛いし聞こえないしでまいってしまい、週明けに病院行ったら子どもの風邪からうつった中耳炎だと判明した。薬を飲みながら様子を見ていくしかないと言われ、そこから1か月半くらい安静にしていたら段々と聞こえるようになってきた。でも、はたしてこれは治ったと言える状態なのか、よくわからないままなんだよね。てっきり「耳抜き」みたいな感じでブツッと耳が開通し、それをもって完治するのかなと思っていたので……。

小川 改善しているならよかった。

清田 それで思ったのは、「終わり」ってハッキリした境界線をイメージしがちだけど、大抵はこうやって慣れたり馴染んだりしながらいつの間にかフェーズが変わっているものなのかもってことで。政治でも社会問題でも、人や制度が変わってもそれまでの問題がすぐに終わるわけではないというか。

小川 私は「終わればガラリと変わる」みたいな発想をもったことはあまりなかったな。

清田 俺はエンドの魔法を信じちゃってるタイプで、そういう発想を無意識にインストールしていたような気がする。ハッピーエンドに憧れたり、バッドエンドを恐れたりってところも結構あるし。

小川 学校を卒業しても、例えば恋愛や友情関係が終わっても、それで私の生活が一変するみたいなドラマチックなことは生きているなかであまりなかったからな。例えば親の死だったり、離婚だったり、もしくは自分が選んで何かをやめることで変化が訪れることはもちろんあるとは思うんだけど、それでも私自身の生活は続いていくというか。

バッドエンドの象徴としての孤独死

清田 桃山商事の恋愛相談では、とりわけ独身女性から「孤独死」という言葉がよく出てくるのね。とにかく結婚しないと、将来一人暮らしの部屋で死んでドロドロに溶けた姿を後日誰かに発見されるんじゃないかと怯えている人がとても多い。

小川 将来一人でいたくないから、離婚するかもしれないけど結婚して子どもが欲しいという声は私もよく聞く。でも、例えば、海外に比べると、日本で育って家庭をもった人が、頻繁に親に連絡したり会いにいったりするという例はあまり私は見てこなかったんだよね。もちろん、実家が遠くて物理的に会いに行けないこともあるとは思うんだけど。

清田 確かにそうかもしれない。

小川 訪問看護をしている友人が言ってたんだけど、結婚していてもパートナーが先に他界することもあれば、子どもが遠方に住んでいて孤独死する人もいるので、既婚者であれば防げるというものではないらしい。

清田 孤独死に対する恐怖が結婚への焦りにつながり、結婚さえすればその恐怖から抜けられる、でもなかなかいい相手に出会えない、ますます焦る……という苦しみの声を聞くことが本当に多くて。そこには一人で生きていく選択肢を前向きに捉えられない社会構造というか、孤独死がバッドエンドの象徴みたいに共有されてる背景が関係してると思うんだよね。

小川 残された整理する人たちは大変だろうなと思うけど、その人がどこまで孤独で死んでいったかなんてこちらが勝手に決められることじゃないと思うけどな。

清田 本当にそうだよね。一方、この社会には家族に看取られて眠るように逝くというのが、ひとつの幸福な最期のイメージとして共有されているところがあるから、そのためには家族をつくらなきゃ、結婚しなきゃという呪縛が知らぬ間にまとわりついてくるという……。

小川 それこそハッピーエンドのプレッシャーなんじゃないかと思う。だからこそ、名前をつけづらいいろんな形の関係性とか、決着をつけないエンディングがその苦しさから楽にしてくれるというか。私は独身だから、既婚の友達に孤独死を心配されたりもするんだよね。でも数年後も同じように思えるのかはわからないけど、今のところはそこまで怖いとは感じていない。頼ったり、頼られたりできる好きな人たちがまわりに数人いて、自分がオープンであれば大丈夫なんじゃないかと思う。

清田 坂元裕二脚本のドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』はまさにそんな作品だったよね。結婚がスタートだとしたら離婚って終わりってイメージがあるけど、離婚したとしても関係を続けることはできる。しかもそれは、「家族」とか「友人」みたいな特定の枠組みに当てはめなくても、距離感や関係性がその時々で変化しながら続いていったりもする。そういう豊かな可能性を示してくれていたように思う。

小川 うん。お互いを束縛せず、コントロールせず、その人がその人らしく自由に生きることを応援し合える。そんなゆるやかなつながりが今後生きていく上ですごく重要なんじゃないかな。それが家族であってもいいんだけど、やっぱり家族という関係性は役割分担に縛られたりして複雑化しやすいから。

清田 大豆田とわ子と元夫たちは、いろんな役割や可能性を含んだまま関係が続いていく様子を見せてくれたところが最高だったよね。

小川 コロナ禍で家族であっても離れて暮らすことが強いられている今、孤独も、誰かと共有するものではなく自分一人のものとして捉えなおす必要性を感じている人は多いんじゃないかな。孤独は誰にでもあるし、たとえ愛する人といても覚える感情だと思う。だからこそ、孤独に拍車をかけるのではなく、どうやって孤独と付き合っていくかを考えさせる物語がとても重要というか。

清田 関係性がある種の混沌状態から、既存のわかりやすい枠組みに収まっていくこと自体はよくあると思う。パチンコ玉がいろんな釘にぶつかって、あちこち転がって最後になんらかの穴にスポッと収まる……みたいなことがエンドのイメージだとしたら、穴の種類がもっと多様化していったらいいなって。3人の元夫たちも「友達に戻った」とか言えばわかりやすいのかもしれないけど、そう簡単に定義できないところが多分にあったわけで。

小川 枠に収まる安心感と、枠にはまれない苦しみというのは生きていく上で常に抱えていくことだと思うんだけど、そういう中で、時代時代で安心とされる場所がエンドとして描かれやすいのかもしれないね。

開かれた関係や結末を求めて

小川 コミュニケーションにおいても「片付ける」とか「収める」ことの必要性がしばしば言われたりするけど、それって実は男性優位な社会構造によって植え付けられているものじゃないかと私は感じていて。というのも、女性は片付けることなく、矛盾も含めて感情が赴くままにおしゃべりしていく傾向がある気がするけど、そこに男性的なコミュニケーションが介入すると、わかりやすくまとめることを求められがちという経験が私にはあって。そうなるといろんなニュアンスが抜け落ちてしまうというか。もちろん、すべての男の人がそういうコミュニケーションのとり方をするわけじゃないけど、そう考えると、男性中心のマジョリティの視点が「物語はまとめるべき」という規範として作用してきた部分も少なからずあるんじゃないかなと。

清田 なるほど、つまりカタやオチをつける行為そのものが男性的ってことだよね。それはすごくわかる気がする。もっともそこには、観る側が受容しやすい形に収めるといった“商業的な”力学も多分に働いている気がするのよ。これでは多くの人が納得しない、みたいなさ。そこで言われる“多くの人”というのが、もしかしたら男性的な感性なのかもしれない。

小川 だからこそ、カタをつけない、オチをつけない、ゆっくりわからなさに向き合うといった物語が今評価されているんじゃないかな。

清田 『現代思想』2021年9月号が「〈恋愛〉の現在」という特集で、俺もエッセイを書かせてもらったんだけど、それは男女二元論の異性愛主義と、恋愛と性愛と結婚が三位一体となったロマンティック・ラブ・イデオロギーを中心とする「恋愛」のイメージが解体されつつある現代にあって、その概念をもう一度考え直してみようという趣旨の特集だったのね。そこでジェンダー・セクシュアリティ研究を専門とする中村香住さんが「クワロマンティック宣言」という論考を書いていて。

小川 クワロマンティック、初めて聞いた。

清田 俺もそれまで知らなかったけど、その論考には「自分が感じる魅力のちがいを区別できない人、自分が魅力を感じているのかわからない人、恋愛的魅力や性的魅力は自分に関係がないと思う人」という一般的な定義が紹介されていた。そして中村さんは、その定義では説明しきれない多様なニュアンスを言語化しつつ、クワロマンティック当事者としての実践を具体的に示しながら紹介していたのね。「親友」とか「付き合ってる」とか、関係性に対する名付けは必要ない、自分にとって大切な人を大切にしていくのだということを中村さんは書いていて、それがなんともグッとくるテキストで。

小川 すごくいいね。ここで話してきたことともいろいろつながる気もする。

清田 わかりやすい言葉で説明すれば理解されやすいのかもしれないけど、そうはせず、「その人のことを、とくにその人がどうしたら少しでも生きやすくなるかを毎日無意識のうちに考えているような相手」である“重要な他者”を大切にしていくとも書かれていて、自分の中のさまざまな枠組みが崩れていくような読書体験だった。

小川 物語が現実ではなくフィクションであることはわかっていても、私たちはそこにリアリティを求め、そこから生きる希望を見出したりするわけだから、エンドの提示のされ方はこれからもすごく変わっていくんだろうね。

清田 ハッピーエンドがひとつの希望なのだとしたら、いろんなハッピーエンドを見せる、描いていくというのが大事なのかもしれない。独身=孤独死みたいなすごく狭いイメージしか描けないんだとしたら、それはロールモデルとして提示されてきていないことの表れかもしれないし。

小川 でもハッピーエンドとして見せる必要がそもそもあるのかという気もして。ドラマを見ていて、すべてが幸せに収集されていくと、ラストに向かって片付けにきたなと私なんかは思っちゃうし。幸福も不幸も捉える人によって解釈が変わることを前提に、そのまま私たちが生きる日々につながっていくような開かれたエンディングを求めているところがある。

清田 あえて閉じないってこと?

小川 例えば、幸せってなんだと考えたときに、ふとした瞬間に感じる何かだよ、みたいなことを多くの人が言うじゃない。それを考えると、幸せも不幸も結末にあるものではなく、過程にあるものなのかなと。

清田 なるほど。素敵な物語に触れたときって、もちろん結末も重要なのかもしれないけれど、それよりもそこに存在している人たちにもっと触れ続けていたい、その物語の時間からまだ出たくないと思えるような、そういう感覚そのものが幸福だったりするような気がする。

小川 そうだよね。時間の尺が決まっている物語においては結末がもちろん必要だけど、終わらせることは、現実ではなかなかコントロールできることじゃない。

清田 文章だったら文字制限もあるしね。

小川 物語にはルールがあるし、結末がなかったら私たちはきっと物語を追わないんだろうけどね。人生にも死という最期はあるし、随所随所にストーリーは生まれるけれど、その章ごとにハッピーな結末を追い求める必要はないというか。意識的にそう考えたほうが楽じゃない?

清田 確かに。そして我々の話もどこで閉じたらいいか難しくなってきたね……。

小川 でもわかりやすいエンドは要らないんじゃないかと言いたくてこのテーマにしたから、この回も閉めなくていいんだと思う(笑)。

清田隆之

文筆家

恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。
1980年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。これまで1200人以上の恋バナを聞き集め、「恋愛とジェンダー」をテーマにコラムやラジオなどで発信している。著書に『どうして男は恋人より男友達を優先しがちなのか』(イースト・プレス)、『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)、『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社)、澁谷知美さんとの共編著『どうして男はそうなんだろうか会議 いろいろ語り合って見えてきた「これからの男」のこと』(筑摩書房)がある。近著に『おしゃべりから始める私たちのジェンダー入門~暮らしとメディアのモヤモヤ「言語化」通信~』(朝日出版社)、文庫版『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(双葉社)がある。
イラスト/オザキエミ
https://twitter.com/momoyama_radio

小川知子

ライター

1982年、東京生まれ。上智大学比較文化学部卒業。雑誌を中心に、インタビュー、映画評の執筆、コラムの寄稿、翻訳など行う。共著に『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)がある。
https://www.instagram.com/tomokes216
https://twitter.com/tometomato

中村桃子

イラストレーター

1991年、東京生まれ。桑沢デザイン研究所ヴィジュアルデザイン科卒業。グラフィックデザイン事務所を経てイラストレーターにとして活動。装画、雑誌、音楽、アパレルブランドのテキスタイルなど。作品集に『HEAVEN』がある。
https://www.instagram.com/nakamuramomoko_ill/