森岡書店代表の森岡督行さんが、銀座の過去、現在、そして未来をつなげる新しい物語です。時の人々が集い、数々のドラマが生まれた銀座には、今もその香りが漂っています。1964年頃に銀座を撮り続けていた写真家・伊藤昊さんの写真とともに、銀座の街を旅してみましょう。
現代銀座考 :XVII ブルーノ・タウトのミラテスと隈研吾
現在の銀座6丁目、交詢ビルの隣、今はヴェルサーチ TOKYO GINZAのある場所には、2009年まで、瀧山町ビル(*1)というビルが建っていました。瀧山町ビルは、1928年(昭和3年)の竣工で、当時、このあたりは瀧山町と呼ばれていました。
1935年2月12日、このビルの一角、並木通り沿いに、工芸店がオープンしました。店名は「ミラテス」(*2)。ドイツの建築家のブルーノ・タウトが店内の内装設計と看板を手がけたなら、販売する工芸もタウトがデザインしました。タウトは、1933年から約3年半、台頭するナチス政権を避けて日本に滞在し、仙台と高崎では、工芸デザインの開発と指導を行いました。タウトの日記に書かれた「どんな小さなことのなかにも全世界を収めることができるものだ」という一文があります。また、桂離宮の線と線で構成された木造の機能美に、日本の美しさを見出したことでも知られています。「ミラテス」はここで1943年10月まで営業しました。
「ミラテス」にはどんな工芸が並んでいたのでしょうか。そのひとつの例として、建築家の隈研吾が、『銀座百点』2005年5月号で、以下のように、父親がミラテスで購入したことで出会った工芸についてのエピソードを書いています。
「僕がまだ小学生のころの話である。ある晩、父が応接間の棚の上の方から、小さな木製の箱を下ろしてきた。直径20センチ、高さ10センチ程度の上品な光沢のある、円形をした蓋付きの箱であった。どろくさい民芸風でもないし、かといって冷たい感じのするモダンデザインとも違う不思議な質感をもった小箱だった」
このような出だしで始まり、タウトが設計した熱海の旧日向別邸から受けた影響に触れ、最後は以下のように結びます。
「振り返ってみれば、父が棚の上から大事そうに下ろしてきたあの小箱が僕の人生をずっとリードしてくれたような気がする。タウトが導くままに僕は図面をひいてきたといってもいい」
くしくも今年2021年は、銀座2丁目のマロニエ通りに、隈研吾のデザインによるホテル「東京エディション銀座」が完成する予定です。このホテルに、私は次のようなイメージを持ちました。銀座6丁目瀧山町ビルのミラテスにあったブルーノ・タウトの小箱が、隈研吾のフィルターを通して、銀座2丁目に大きなホテルとして出現する。小箱が、並木通りを遡って、マロニエ通りを右折して、フォルムとディテールを昇華しながら、ホテルのデザインに取り込まれていく。
実は、タウトは、当時の銀座の街と建築について、かなり辛口の記述をのこしています。このホテルに最もふさわしい宿泊客は誰かというと、もし叶うなら、タウトかもしれません。1935年の「ミラテス」の残照として。
中央区銀座6-7-12
*2 ミラテス/高崎で建設業を営んでいた井上房一郎が軽井沢と銀座につくった工芸のギャラリー。井上は日本滞在中のタウトを支援していた。写真家・師岡宏次の『思い出の銀座』(講談社)に収録されている並木通りを撮影した写真に、ミラテスの外観が写っている。