『花椿』2020年夏・秋合併号で「銀座と資生堂の物語」をテーマに銀座について考察を深めた森岡書店代表の森岡督行さんが、書籍や出来事を通して過去の銀座と現在、そして未来の銀座をつなげる新しい銀座物語です。
時の人々が集い、数々のドラマが生まれた銀座には、今もその香りが漂っています。1964年頃に銀座を撮り続けていた写真家・伊藤昊さんの写真とともに、銀座の街を旅してみましょう。
Ⅳ 鳩居堂の偶然
先日、ドイツ在住のある方から手紙をいただきました。現代は、多様なデジタルツールが発達しましたが、時として、手紙の良さを感じることがあります。便箋と封筒をどうするか。切手をどうするか。選ぶ楽しさがあります。受け取る喜びがあります。そのある方がドイツから送ってくれたのは、鳩居堂(*1)の便箋と封筒でした。
返信するのなら、やはり、鳩居堂の便箋と封筒にしたい。そう思った私は、6月のある日、鈴木ビルから銀座5丁目の鳩居堂に向かいました。銀座4丁目交差点を渡ると、お香の香りがしました。鳩居堂の玄関でお香の売り出しをしていて、それが漂っていたのです。鳩居堂は、1877年に当時の太政大臣の三條実美公より、同家に900年来伝わる宮中御用の「合わせ香」の秘方を伝授され、今日まで継承してきました。平安時代と変わらない調香に触れられるのは、考えてみれば、すごいことです。例えば、『枕草子』には、「心ときめきするもの」として、「よき薫物たきてひとり臥したる」、「頭洗ひ、化粧じて、香ばしうしみたる衣など着たる」とあります。
鳩居堂ビルのファサード左側には、1663という数字が刻まれています。これは京都で鳩居堂が創業した年です。当初は薬種商としてスタートし、漢方薬の調合の原料にお香の素材に通じるものがあったことが、お香をつくるきっかけになったといいます。調べてみると、同年の京都では、尾形乾山(おがた・けんざん)(*2)が生まれていました。尾形乾山には香炉の作品があるので、もしかしたら、尾形乾山も、京都の鳩居堂で買い物をしたかもしれません。
右側には、1880という数字が刻まれています。こちらは鳩居堂が銀座に出張所を開設した年です。当時は、どのように京都から銀座まで商品を運んだのでしょうか。京都から神戸までは鉄道が完成していたので、まずは神戸に運び、そこから船で横浜港まで輸送し、横浜から新橋までは、また鉄道で運んだかもしれません。真相は分かりませんが、1880年のある日、機関車の到着を待つ人の気持ちを考えただけで、ワクワクします。
封筒と便箋は、1階の帳場の前に並んでいます。私はレターヘッドに鳩居堂の「向い鳩」マークが入った、「The Letter」を選びました。「有信(ゆうしん)」と名付けられた封筒があり、資生堂の創業者の福原有信(ふくはら・ありのぶ)を思い出し、こちらも求めました。「あじさい」と「あさがお」という季節の一筆箋の前で、「あじさいは使ったから、あさがおにしよう」と言葉を交わしている御婦人がいました。
封筒は銀座郵便局で投函します。銀座郵便局の風景印は、銀座4丁交差点の風景が描かれていて、これを切手に押したら、いかにも銀座の鳩居堂の封筒らしい。風景印とは、特定の郵便局オリジナルの消印のことです。
次は切手をどうするか。私はかつて切手少年でした。確か尾形乾山のうつわの切手があったはず……。あらためて調べてみると1973 年のお年玉切手がそうでした。そういえば、ある方は、私の一つ上だから1973年生まれ。鳩居堂の封筒の周囲で起こったちょっとした偶然。せっかくだから、尾形乾山の切手を貼って送ることにしました。いつか銀座でお会いできることを期待して。
東京都中央区銀座5-7-4
(*2)尾形乾山 1663年~1743年。京都の富裕な呉服商尾形宗謙(おがた・そうけん)の三男として生まれました。兄は画家の光琳。乾山の作品は陶芸作品のみならず書や絵画においても、俗気を脱したおおらかで文人的な洒脱味があったと言われている。