森岡書店代表の森岡督行さんが、銀座の過去、現在、そして未来をつなげる新しい物語です。時の人々が集い、数々のドラマが生まれた銀座には、今もその香りが漂っています。1964年頃に銀座を撮り続けていた写真家・伊藤昊さんの写真とともに、銀座の街を旅してみましょう。
XLVI:銀座と写真
今から100年前の1922年(大正11年)、この年、日本で初めての写真集が出版されました。出版したのは、他でもない、資生堂の初代社長で写真家の福原信三。日本で初の写真集が何かという観点は、これまでなかったと思うのですが、平凡社『別冊太陽・写真集を編む。』(2021年刊)にて、福原信三の『巴里とセーヌ』(*1)が本邦初ということが言及されました。だから今年は、日本における写真集100周年記念の年。前回の「ショートケーキについて」「ショートケーキについて」で述べたように、日本のショートケーキの発祥を不二家に求めると1922年なので、写真集とショートケーキは同じ時間軸で、日本の社会に浸透していったということになります。
福原信三が資生堂ギャラリーで幾度も写真展を開催していたように、銀座には写真の街という側面があります。現在も各カメラメーカーのギャラリーが点在し、毎日のように写真展が開催されています。もし私が、かつて銀座で開催された写真展のうち、どれかひとつだけあげるよう問われたなら、かなり迷いますが、1933年(昭和8年)、木村伊兵衛の初の個展「ライカによる文芸家肖像写真展」をあげるでしょう。この展覧会は、当時、銀座にあった紀伊國屋書店の回廊にて開催されました。銀座の紀伊國屋書店は1930年(昭和5年)から1939年(昭和14年)まで、現在のGINZA SIX(*2)の敷地にあったようです。もちろん、実際に足を運んではいませんが、林芙美子や山田耕筰の写真が展示され、日本工房が展示構成やパンフレットを手がけていたなら、それはどんな光景だったのか見てみたかったというほかありません。
木村伊兵衛の写真について、往年の女優の高峰秀子をどのように撮ったのか、土門拳との比較で、以下のことが知られています。
土門拳が高峰秀子を撮ったのは銀座。1丁目から8丁目まで、中央通りを3回も歩かせて、高峰秀子を見る街の人を撮って、女優の姿を写し出しました。土門拳は「おんぶお化けのように」高峰秀子の背中にへばりついていたといいます。我慢くらべのような撮影でしたが、高峰は、それを最後には、一枚の印画紙に浮かびあがってくる被写体に懸ける、人並みはずれた「ものを見る眼」と評しました。
一方の木村伊兵衛といえば、高峰秀子の自宅に一人で現れ、お茶を飲み話しながらいつのまにか撮り終えていました。「シュッ、シュッ」とライカのシャッター音と共に。そして出来上がった誌面を見た高峰が述べたのは、「薄暗いバックの中に真珠の玉が浮かんだような、私とは似ても似つかぬ美女がいて、私は仰天した」。「こういう人を『女蕩し(おんなたらし)』というのだな」と評しました。どちらかというと、私は、木村伊兵衛のこのスタイルの方が好きです。いきな感じがします。
銀座を撮った写真家、銀座を舞台に写真を撮った写真家はたくさんいましたが、男性の視点が多かったように思います。そこでこの度、新企画として、写真家の石内都さんに撮っていただくことになりました。それをまた『花椿』オンラインにて公開していきます。銀座に残る記憶と未来をつなげる新しい物語となります。石内さんが切りとる銀座の姿とはーー。
イメージは勝手に広がります。どうぞご期待ください。
*2 GINZA SIX/世界でここにしかない特別な場と仕掛けを創発している、銀座エリア最大の商業施設。東京都中央区銀座6-10-1