森岡書店代表の森岡督行さんが、銀座の過去、現在、そして未来をつなげる新しい物語です。時の人々が集い、数々のドラマが生まれた銀座には、今もその香りが漂っています。1964年頃に銀座を撮り続けていた写真家・伊藤昊さんの写真とともに、銀座の街を旅してみましょう。
現代銀座考 : XLII
銀座と民藝
東京国立近代美術館で開催されている「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」展に行ってきました。民藝とは、柳宗悦たちが1925年末につくった言葉と考え方で「民衆的工芸」の略語とされます。民藝には、正確にはいくつかの定義があると思うのですが、私は、日常の衣服や器、住居を美しくすることで、この世の生活をより豊かにしていこう、それらを介して家族や友人との時間を大切にしよう、というのがまずはベースにあると思っています。その上に、「美しい」の諸条件があるのだろうと感じています。
「民藝の100年」展の展示品のひとつに、『月刊民藝』創刊号(1939年4月)に掲載された「民藝樹」がありました(模写をご参照ください)。それを見ると、「民藝」が、「日本民藝館」、『雑誌工藝』、「たくみ工藝店」の3本柱で構成された社会運動だということがわかります。この「たくみ工藝店」とは、銀座8丁目花椿通りと外堀通りの交差点にある「銀座たくみ」であり、1933年(昭和8年)の開業以来、ずっと銀座で民藝を販売してきました。もともと「たくみ工藝店」は、前年に鳥取市で耳鼻咽喉科医師の吉田璋也が創業し、販路を求めて銀座にも出店しました。「たくみ工藝店」は民藝を手に取って触れることのできる場所として、当初からその役割を担ってきたのです。
ところで、民藝を唱えた柳宗悦と、資生堂の初代社長の福原信三は、生活を美しくすることを実践したという点で、考え方が非常に近いと思うのですが、実際には交流があったのでしょうか。年齢も近く、柳宗悦が1889年生まれで、福原信三が1883年生まれ。民藝に「日本民藝館」と『雑誌民藝』と「たくみ工藝店」があったように、資生堂には「資生堂ギャラリー」と『花椿』と「チェインストア(化粧品専門店)」がありました。
『資生堂ギャラリー七十五年史』を見ると、柳宗悦は、1931年6月4日から資生堂ギャラリーで開催された「諸国民藝品展」において、北九州、山陰地方で買い集めた新しい郷土工芸品を「新しいげてもの」と名付けて、展示販売をしています。柳宗悦は、現実の生活で使われている雑器や布など、下手物(げてもの)と呼ばれるものの中に美しさを見出しましたが、ここでいう「新しいげてもの」とはどういったものだったのでしょうか。
「たくみ工藝店」をおこした吉田璋也は、伝統を生かした新しいデザインを自ら考案し、産地でディレクションも行いました。そして、ちょうど1931年5月15日、吉田璋也がディレクションした鳥取の牛ノ戸焼の第1回開窯には柳宗悦も立ち会い、「上々の出来だ」と評価したそうです。時期的に、それらが資生堂ギャラリーに並んだ可能性が十分に考えられます。
もしかしたら、現在の「銀座たくみ」でも、牛ノ戸焼が販売されているのかもしれない、そう思った私は、銀座8丁目のお店を訪ねてみました。すると……あ、ありました! 玄関を入って右側の台の上にしっかりとありました。もちろん直に手に取ることができます。そして、この器に何を盛りつけようかと考えたとき、銀座8丁目で販売されていた、資生堂パーラーのアイスクリームを思い浮かべました。
東京都中央区銀座8-4-2 たくみビル 1F、2F