森岡書店代表の森岡督行さんが、銀座の過去、現在、そして未来をつなげる新しい物語です。時の人々が集い、数々のドラマが生まれた銀座には、今もその香りが漂っています。1964年頃に銀座を撮り続けていた写真家・伊藤昊さんの写真とともに、銀座の街を旅してみましょう。
現代銀座考 : XXXIX
和田誠の銀座の一側面
東京オペラシティ アートギャラリーで開催されている和田誠展を見に行ってきました。和田誠さん(*1)は、著書に『銀座界隈ドキドキの日々』(文春文庫)があるように、銀座に馴染み深く、大学を卒業した1959年から68年までの9年間、銀座にあるデザイン会社、ライトパブリシティに勤務していました。1963年頃のライトパブリシティは、銀座7丁目電通通りのニューギンザビル(現存)に入居していました。例えば、「銀座 ウエスト」で、寺山修司とコーヒーを飲みながら会話をしている記述があったり、壱番館洋服店の玄関のイラストを描いていたり、和田誠さんは、銀座のなかでも、電通通りをよく歩いていたと考えられます。
展覧会では「銀座」につながる仕事もいくつか見ることができました。例えば、資生堂石鹸のポスターには、駱駝の背にロングヘアの女性がひとり乗り、砂漠のなかをどこかに向かっているイラストが描かれています。「汗が待ってるポトラッチ――贈りましょう」というコピーも印字されています。ポトラッチとは、アメリカインディアンの言葉で「贈与」という意味です。このイラストとコピーには、和田誠さんたち制作チームの独自の見解があるように思います。汗という文字がもつイメージ。水分を吸収する砂漠のイメージ。コンセプトを説明するため、ラフを抱えて、銀座7丁目並木通りの資生堂に向かう和田誠さんの姿が浮かんできました。
また、銀座を通る都電が、1967年12月9日に廃止になる際には、ライトパブリシティのコーピーライターの秋山晶さんと組み、キヤノンの新聞広告で都電へのオマージュを込めた作品を発表しました。1903年(明治36年)に鉄道馬車を引き継いで誕生し、関東大震災のときは、人々が、復旧した最初の電車を歓声をあげて見送ったことや、戦後の見渡す限りの焦土のなかをを一日も休まなかった交通機関だったことに触れ、車社会の到来が述べられています。
2009年にggg(*2)で開催された「銀座界隈隈ガヤガヤ青春ショー」のポスターを見ると、同展は、灘本唯人・宇野亜喜良・和田誠・横尾忠則の4人で行われたことがわかります。このポスターの背景として『銀座界隈ドキドキの日々』に、以下の記述がありました。「デザインセンターは銀座の東側、ライトは銀座の西側にあって、昼飯どきはまん中へんのレストランや喫茶店で社員同士よく出会った。デザインセンターの若手には宇野亜喜良さんや横尾忠則君がいて、とりわけこの二人に昼飯どきに会うのが嬉しかった。ぼくたちは当時はみなデザイナーとして仕事をしていたわけだが、イラストレーターでもあり、イラストレーターという職業があることを世の中にもっと知らせたいという夢を持っていた」
オペラシティの展覧会を見ての感想は、それにしても膨大な量の仕事だということです。『週刊文春』の表紙は40年の長きにわたって描かれました。ポスターにしても絵本にしても装丁にしても、そのひとつひとつがカッコ良く、きっと和田さんはいつも楽しんで仕事をしていたのではないでしょうか。和田誠さんは、銀座について以下のように述べます。「銀座に詳しくはならなかったけど、何げなく出会った人たちが、それぞれ優れた仕事をしている。ぼくはその人たちに教えられ、影響を受けて、おかげで交友の上でも仕事の上でも行動半径がずいぶん拡がった。ぼくのドキドキの日々は、豊で幸せな日々でもあった」。もしなぜ和田誠さんが、このような仕事を残すことができたかを問われたなら、「銀座」で働いていたからと答えたくなります。
*2/ ggg ギンザ・グラフィック・ギャラリー(ginza graphic gallery)は、グラフィックデザインの専門ギャラリーとして3つのgの頭文字から「スリー・ジー(ggg)」の愛称で親しまれている。1986年、グラフィックデザインと密接なかかわりをもつ大日本印刷株式会社が設立。