現代銀座考
2021.01.26
現代銀座考 :XVIII 『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』 読書感想文 〜銀座の観点から〜
写真/伊藤昊
文、イラスト/森岡督行
森岡書店代表の森岡督行さんが、銀座の過去、現在、そして未来をつなげる新しい物語です。時の人々が集い、数々のドラマが生まれた銀座には、今もその香りが漂っています。1964年頃に銀座を撮り続けていた写真家・伊藤昊さんの写真とともに、銀座の街を旅してみましょう。
現代銀座考 :XVIII 『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』 読書感想文 〜銀座の観点から〜
年明けのステイホームで、『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』河尻亨一著を読みました。576頁もの大著ですが、冒頭における石岡瑛子(*1)に対する質問が、本全体の基調低音となっていて、最後までこちらの心に響いてきました。すなわち、「ファスト・クリエイティブの時代をどう生きるべきか?」「どんな時代にも通用する本物とは何か?」、総じて「グラフィックデザインはサバイブできるか?」「どうすればタイムレスを表現できるのか?」ということ。
本書を読むことは、石岡がこの質問に対して述べた回答のバックボーンを追走していくことに他なりません。ときにスリリングに。まさに時間と空間を超えて。あたかも石岡の肉声が行間から聞こえてきそうな。
石岡は、東京藝術大学卒業後の1961年に資生堂に入社し、初の女性アートディレクターとして活躍後、独立しました。この本には、全体のなかではごく一部ですが、当時の銀座の雰囲気が、石岡の後輩であった松永真(*2)の述懐として描かれています。
「やっぱり黎明期というのは、いろんな人材がいて、わっとくっつくことで新しい波ができていく。いま思うと、とっても自由だったんじゃないですかね? 銀座にはライトパブリシティがあって、日本デザインセンターもあって、昼時になるとそこらで遭遇するんですよ。『あ、ライトの細谷(巖)さんがいる』とか『あれが横尾(忠則)さん』とか。そういう時代でしたね」
このような銀座の雰囲気のなかで、石岡も、多くの才能と出会っては、持ち前のエネルギーと融合させて、独自のビジュアルを生み出していました。その後のNYでの活躍を考えれば、銀座で働いた時代は、たっぷりとした助走期間だったと言ってよいでしょう。
例えば、そのなかには、建築家の安藤忠雄がいました。60年代、倉俣史朗や横尾忠則と一緒に、銀座の宝くじのPRコーナーを設計したときに知り会ったといいます。
当時、資生堂のショーウィンドウを、年10回10年間担当した、彫刻家の伊藤隆道を招聘したのも石岡でした。「この人、面白い」ということで。伊藤のショーウィンドウの斬新さは、銀座の風物詩となり、資生堂のクリエイションにも大きな影響を残しました。
あくまで自分の意見ですが、銀座は碁盤の目に道路がはしっているので、そのなかでの偶然の出会いや、新鮮な知見の獲得は、アナログなインターネットと言えるのではないでしょうか。検索の二次元ではなく、偶発の三次元としてのインターネット。このような銀座のイメージが立ち上がりました。
冒頭の質問に対して石岡は何と答えたのでしょう。ぜひ、本書を手に取ってほしいですし、あわせて、もし可能なら、現在開催中の、ギンザ・グラフィック・ギャラリー『SURVIVE - EIKO ISHIOKA /石岡瑛子 グラフィックデザインはサバイブできるか』と東京都現代美術館『血が、汗が、涙がデザインできるか』に足を運んでほしいです。時代と伴走しながら、自らを加速させていった石岡の息吹が、いまなお、作品から伝わってきます。石岡が残した言葉は、コロナ禍のいまこそ、私たちの指針になるはずです。
*2 松永真/1940年東京生まれ。1964年東京藝術大学美術学部卒業後、資生堂宣伝部へ。その後1971年松永真デザイン事務所設立。主な仕事に、石岡とともに手がけた資生堂のサマー・キャンペーンや一連の平和ポスターから、ベネッセ、ISSEY MIYAKE、国立西洋美術館などのCI計画。