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まぶたの裏、表

2024.02.15

まぶたの裏、表 Vol.15 RAWデータと無数の写真

文・写真/細倉 真弓

写真をとおして「ものを見ること」を考察する、写真家・細倉真弓さんによるエッセー、第十五回で最終回となります。撮影時にカメラのセンサーが得た画像情報をできる限り損失のない記録形式として残すことができる「RAW」データと、そこからみえてくるものについて。

 

Vol.15 RAWデータと無数の写真

写真をデジタルカメラで撮るときにRAWデータと言うものがある。写真の拡張子にはJPEGやTIFFといったものがあるが、RAWデータはそれらに比べて撮影時にカメラのセンサーが得た画像情報をできる限り損失のない記録形式として残すことができる。「RAW」はそのまま「生」という意味だが、その言葉通り撮影した画像情報をできるだけ生の状態で記録することができる。より具体的にいうと、撮影後に明るさや暗部、明部などのパラメーターをJPEG画像などよりも大幅に調整することが可能になる。
この「RAW」ということばに写真の不思議さのひとつがあるように思う。

写真の「RAW」性は言ってみれば改変可能性であり可塑性である。そしてこの「RAW」性はデジタル写真に限ったことではなく写真全般、複製技術としての写真全般にはじめから組み込まれていた性質なのだと思う。デジタル写真でなくとも、アナログ写真のネガやポジにも「RAW」性は組み込まれている。つまり原本となる元のデータやネガにある情報から現像やプリント作業によって同じ「ような」写真をいくつも複製することができる。データやネガに情報があればその写真を明るくもできるし暗くもできる。コントラストや色味も変えることができる。同じデータから無数の同じ「ような」写真が生まれるが、それは同じなようで少しずつ違っている。そしてその違いが撮影されたその瞬間からデータやネガに内包されている。

2枚の写真を並べて見てみる。どちらも雨上がり道端の植物に水滴が無数に連なっている写真である。ひとつは明るく、もうひとつは暗い。元になった原本のデータは同じで、その同じデータから生まれた双子のような2枚の写真。
明るい写真は植物も水滴と同じように白く浮かび上がり氷のような質感にも見える。全体の雰囲気も明るく雨上がりの太陽を感じる。暗い写真は水滴に映り込む光の反射が強調され、水滴一粒一粒に目を奪われる。写真から受ける印象はもう少ししっとりとした感触があり太陽というよりは雨上がりの曇り空を想像する。
この2枚の写真を見てどちらが正しいかと問うことにはあまり意味がないように思う。それは撮影者の意図がどちらを選んだか、という以前の話として意味がない。そしてどちらが現実により近いのか、という問いにも同じように意味がない。というのも私が見ている現実の水滴と別の誰かが(私の目の前にいるあなたが)見ているその同じ水滴を、それぞれがどのように見ているかということを確かめる方法がないからだ。もっと言えば同じ私という人物であっても、昨日の私と今日の私が同じ水滴を見ても同じものを見ているとは断言できないし、1秒前の自分と今現在の自分であっても同じものを見て同じ印象を得ているとは言えない。
それぞれの身長や体重、視力、体調、その日の気分で見えてくるものが違うからだ。それぞれの状態で光信号として受け止められた視覚情報が網膜を通って脳に伝わり映像として統合されたその水滴が、どのように見えるかということに正解はないように思われる。
ただ同じ「ような」可能性だけがある。

写真の「RAW」性というのはそんな「それぞれが少しずつ違うものを見ている」という可能性を最初から組み込んでどのようにも出力できるということだ。決して全く同じではないけれど、同じ「ような」無数の写真たち。この同じ「ような」というところに私たちがわかりあえないなりにお互いを理解しようとする拠り所があるように思える。少しずつそれぞれ違うけれどなんとかお互いがやっていけるような、そんな可能性。
写真そのものではあるけれど、これもまた写真的な体験だと私は2枚の写真を見比べては思う。

細倉 真弓

写真家

東京/京都在住
触覚的な視覚を軸に、身体や性、人と人工物、有機物と無機物など、移り変わっていく境界線を写真と映像で扱う。立命館大学文学部、及び日本大学芸術学部写真学科卒業。写真集に「NEW SKIN」(2020年、MACK)、「Jubilee」(2017年、artbeat publishers)、「transparency is the new mystery」(2016年、MACK)など。
http://hosokuramayumi.com