写真をとおして「ものを見ること」を考察する、写真家・細倉真弓さんによるエッセー、第十四回をお送りします。異なる規則正しい模様同士が重なり合うことで、本来は実在しないがその瞬間にだけ生み出される縞模様「モアレ」について考えてみましょう。
Vol.14 新しいモアレ
実際にはそこに存在していないのに、目には見えている(ように思う)という現象が世の中にはいくつもある。
目の中にある盲点や、白い空間を見たときに視界に糸屑のようなものがいくつも浮かんで見える飛蚊症、太陽を肉眼で見た時に目を逸らしても目の中に色の反転した黒い太陽が残像として残る現象もそうだろう。そんな脳や神経の誤作動のような働きもあればもっと素直に「ないはずのもの」が「見えること」に驚く体験もある。「モアレ」はその一つだと思う。
モアレ(あるいはモワレともいわれる)は、織物や網点などの規則正しい繰り返し模様を重ね合わせたときに発生するモヤモヤとした縞模様ことだ。薄い織物を複数重ねた時にその織物と織物の間にモヤモヤとした模様が浮かび上がるけれど、その織物同士を一枚ずつ見てみるとそんな模様はどこにも存在しない。その織物同士が密着して重ね合わされたときにだけ、不定形の柄が浮かび上がる。この模様はいったいどの空間に存在しているのだろうか。
複数の織物の例は現実に目の前で起こっている現象だけれど、モアレはデジタル的な仮想空間でも発生する。私は生業として写真を撮って生活しているのでたまに洋服などの商品の写真を撮ることもあるのだけれど、織り目がよく見える生地の服をカメラの絞りをF18程度に設定して撮影するとデジタルカメラの画素解像度と洋服の織り目が干渉しあい画面上で現実には見えない模様が発生することがある。そのモヤモヤとした画像をパソコンの画面上で拡大縮小してみると、ある一定の縮小率でモアレが発生してそれ以上に拡大するとモアレはまた見えなくなる。ここでは布の織り目とカメラの映像素子の並び、さらにそこにパソコンのディスプレイが持つピクセルが重なり合ってある条件の時にモヤモヤとしたモアレが可視化されることになる。違う空間に存在するそれぞれのものたちがある一定条件で共鳴してうなり、本当は存在しない模様がその場にだけ現れる。私たちはものではなく、その場で起こった現象を見ている。
商店街を友人たちと歩いていた時に、友達の一人が「あっ」とななめ上を指差した。つられて私も友人の指さす方向を見上げるとそこには工事中の店舗の上に仮囲いされた薄い布がゆっくりと風に揺られながらサイケデリックな模様を浮かび上がらせていた。日常的な商店街の空間から少しだけ目線を上げた先に突然現れた違う時空のような平面に驚きながら、友人たちとしばらくその模様を見続ける。薄い布地は2枚重ねられ布地の端にある鳩目によって一定間隔で留められた状態で、2枚の布地の間には緩やかな隙間がありそれが風によってくっついたり離れたりしている。そのことにより、私たちが見ている模様は風が吹くたびに次々と移り変わりモヤモヤとしたその柄は血管の顕微鏡動画のようにうねうねと動いていた。この形の定まらない縞模様たちは、布地と布地が触れ合ったその瞬間、布地同士が触れ合ったそのわずかな表面に現れる。存在しているのかいないのか、目には見えるけれど何を見ているのか、とても宙ぶらりんな気持ちになる。
この気持ちは何かに似ているなと思う。photoshopで2枚の写真を合成して表面が重なったその写真を見るとき。2枚のテクスチャーが混じり合い、存在しなかったはずの表面が現れる。写真は光の記録なので、写っているものは実際に光学的に記録された現実なのだけれど、それが重ね合わされると存在しなかったテクスチャーが画面上に現れる。けれどもそれは0から作られたCGとは違う。存在している(していた)もの同士の重なりのその隙間に幽霊のように現れるテクスチャーなのだ。この写真上の幽霊についてもうすでに名前があるのかどうかはわからないけれど、画像と画像が重なりあってうなりを生み出しているその様を私はモアレのようだと思う。写真の新しいモアレだと。