写真をとおして「ものを見ること」を考察する、写真家・細倉真弓さんによるエッセー、第十二回をお送りします。我々の身近に潜み、ある条件下で現れる幽霊と呼ぶものについて。
Vol.12 写真に映り込む幽霊
写真に映り込む幽霊、というと心霊写真やオーラ写真のようなものを思い浮かべるかもしれないし、実際のところ私はそういう写真の話が好きなのだけれど、今回の話題はそれとはちょっと違う。もう少し現実的で、気がつくと目の前にいるのだけれど見て見ぬふりをしてやり過ごしてしまうような、そんな幽霊について。
そんな幽霊とは街の中でも頻繁に出会っているのだけれど、街中ではその幽霊はもう少し当たり前の存在として現れるので幽霊とは認識されない。街の中では見て見ぬふりをしなくてもよい設定になっている。幽霊は場所によって見えたり見えなかったりするわけではなく、肉眼では常に見えているのだけれど、なぜだか突然見えていないことになる場所、というのがあって、見えているのに見えてはいけないものが立ち上がるとき、そこに幽霊が現れる。つまりある条件下においてだけその幽霊は現れる。
ある条件が作用している場所、今回の場合は美術館やギャラリーと呼ばれるところだ。美術館やギャラリーで写真作品と呼ばれるものを見るとき、その多くは額に入れられ表面にはガラスや透明なアクリル板がはめられていることが多いだろう。ガラスやアクリル板は中の写真を保護するためにはめられている。目の前に縦40cm、横55cmほどの白い額に入れられた写真がある。写真の大きさは額の大きさとほぼ同じで額の縁のすぐ内側にイメージが配置されている。つまり白い額の内側には写真のイメージが目一杯広がっている。そしてその写真には夜になったばかりのような紺色の空と山が写っていて、その表面を透明なアクリル板が守っている。その額に近づいて、写真を見ようとして額の正面に立ったとき、目の前に幽霊が突然現れることになる、アクリル板に写り込んだ自分自身という幽霊が。
この幽霊はいろいろな条件によって見え方が変わる。額に入っている写真が白っぽかったり明るい色合いだったりすると幽霊は見えづらい。逆に黒や濃い色の写真の場合、幽霊はかなりはっきりと目の前に現れることになる。そしてどんなにはっきりとこの幽霊が目の前に現れても、見ている目の前の写真のイメージとこの幽霊は関係のないもの、存在しないものとして扱われる。写真をおおったガラスやアクリル板の表面に映り込む自分自身というものは、その写真が撮影された場所とも時間とも関係なく、いまここに現れたものでしかないのだから、私がいま見ているこの写真の内容には影響しない、そう考えるのは自然なことのようにも思える。
けれど、それにしては幽霊は見えすぎているのだ。
こんなにはっきりと見えているものをどこまで無視していいのか、いつも私はわからなくなる。
もう1度さっきの写真を見てみる。額の中には濃い紺色の空と山の写真がある。その山のディテールを見ようと顔を額に向けて近づけてみると、写真のイメージより手前に大きくなった自分が現れ、目線を平行にするとアクリル板に映り込んだ自分の幽霊と目が合うことになる。その幽霊を無視して奥にあるイメージを見ようと目のピントの位置を奥にずらそうとしてみても、幽霊とイメージが混じり合ってなかなかうまく見ることができない。仕方なく右や左に体を振っては見たい場所に幽霊が映らない角度を探しながら細部を見ていく。
今度は少し遠ざかって写真全体が見られる位置まで下がってみる。そうすると額の表面には案の定少し小さくなった幽霊がこちらに向き合っているのを見ることになるし、もっと遠くへと引いてみればそこにはさらに小さな自分と通りすぎる数人の鑑賞者たちの幽霊が見えてくる。そして人だけではなく額が相対する全てのものたちがこれでもかとアクリル板の表面に現れる。無数の幽霊、幽霊、幽霊。
本や雑誌の中の写真の上に幽霊が現れることはほぼない。そのとき写真は写された場所や時間をそのままイメージの中にとどめている。私たちは困惑することはなく、簡単にイメージに没入することができる。けれど、いざそれらの写真が額装されガラスやアクリルが表面にはめられたそのとき、同じ(であるはずの!)イメージの表面に、見ている私たちのいま現在の時間や場所が幽霊として上書きされてしまう。このとき私たちが「本当に」見ているのはなんなのだろうかと思う。
実際のところ、私はこの幽霊たちとどのように向き合えばいいのかよくわかっていない。それでも幽霊は忘れた頃に目の前に現れて、ここにいるよと声をかけてくる。見て見ぬふりをしてもどうしても見えてしまう彼らをいないものとしてやり過ごすのももうできないような気がしている。いるものはいるのだ。