写真をとおして「ものを見ること」を考察する、写真家・細倉真弓さんによるエッセー、第七回をお送りします。酩酊状態で起きる化学反応と、写真に写し出された確かに存在する体験と記憶の共有について。
Vol.07 酩酊する写真
楽しく酔っ払った次の日の朝、iPhoneのカメラロールを開いてみるといつ撮ったのか、何を撮ったのか、どうしてその写真を撮ろうと思ったのかさえ思い出せない/わからない写真が次々と出てくる。手ぶれで何が写っているのか判然としないもの、フラッシュがハレーションを起こして真っ白な写真、あるいは画像はしっかり何が写っているのかはわかるのだがどうしてこれを撮ろうと思ったのか自分の意図が一切読み取れない写真。例えば友人が一人でソファで座っているところが同じ構図で延々と30枚ほど。特に何が起こるのでもなく、ただ淡々と同じ表情をした友人が空いたグラスを片手にこちらを見ている。
でもよくよくその写真を眺めているとそのときの私は何かしらの発見、確信があってこの写真を撮ったようにも思える。その何かを撮りたくて30枚も写真をカメラロールに残しているのだ。酔いから醒めた今の私にはわからないだけで。
ある種の酩酊状態について考えることが私は好きだ。酩酊状態というのは極めて個人的なもので人と共有することができない。一緒にお酒を飲んで同じように酔っ払って楽しくなったりおしゃべりになったりはするのだけれど、どれくらい飲めば酔っ払うのかも違えばその酔い方は人それぞれで、自分でない誰かの酩酊状態を体験することはできない。
ひどく酔っ払って目の前の風景がまっすぐに見えないことがある。まっすぐに立っていることができないのでとりあえずその場に座り込んで冷静に目の前の風景を眺めようとするのだが、目の焦点がひとつの場所にとどまらず視界のいろいろな場所を回遊してその先その先で気になるもの(例えば変な場所にあるコンセントや床のゴミや髪の毛など)を見つけては思考がそこに飛ばされていくので、いつまでたっても目の前の風景を冷静に眺めることができない。また別の日は目に見える光るもの全てが眩しく感じられて目を開けていられなかったり、自分の手のひらのシワが気になってずっと見ているうちに自分の身体がミクロ化したようなクローズアップの世界に入り込んでしまったりする。けれどしばらくしてはっとまわりを見渡してみるとみんなまっすぐに立ってふだん通り会話をしているし誰も大きくも小さくもなっていない。酩酊した中で見えたように思えたものは自分の身体の中でアルコールがもたらした一種の化学反応なのだ。しかしそれでもその体験のひとつひとつは自分にとっては確実に存在した体験であり、そのことを伝えるためには何かを残さないといけない。
酩酊状態=酔っ払うという体験はテンションが上がって楽しくなったり、気持ち悪くなったり、判断力がなくなってしまうことだけではなくてそのことをも含めた誰とも共有できない自分だけの体験をしてしまう、そういうそれぞれの孤独についての話なのではないかと思っている。
でも本当のところ全ての体験は個人的なもので、お酒を飲んでいない素面の状態で同じものを見ていても全く同じものは誰とも見ることはできない。立っている位置や視力の差、その日の体調、知識、なんでもいいけれど受け取る個人のパラメータで全ての物事は見え方が変わる。ただ、それでも自分が見たものを人と共有したいという欲望で昔から人は小説を書いたり絵を描いたり写真や映画を撮ったりしてきたのではないだろうか。
そう考えると同じ人間なのに、昨日の酔っ払った自分の体験を現在の酔いが醒めた自分が理解できないことは半分は仕方のないことでもあり、半分は少し悲しいことのような気がする。酔っ払った自分が残してくれたカメラロールの中の写真や動画を半分他者として眺めながらそのときの私の発見や確信を探そうとしてみる。
写真の中で像は不安定に揺れピントが合わずにシャッターが切られてはぼんやりとした影を残していたり、自分の足元が写っているもの、なんでもない道路、流れる光の線や知らない誰かのピースサインなど。それは自分に似た存在しない誰かの視線に自分を重ねあわせるような体験で、カメラというのは撮影者と鑑賞者の視線を重ねあわせる機械だということを思い出す。そして同時に撮影者とカメラとのどこまでいっても一体になれないという絶望、私の脳内で起こっている化学反応をカメラは撮影できない、撮影者には見えているのにカメラには見えない、という絶望も思い出させてくれる。
それでも「孤独な体験を共有すること」をあきらめない、という意思を私はいつも酔っ払った次の日のカメラロールから感じるし、それは結構希望だなと思っている。