写真をとおして「ものを見ること」を考察する、写真家・細倉真弓さんによるエッセー、第五回をお送りします。視覚から得る情報はときに触覚や想像力まで支配する。いつもよりほんの少しピントをずらすことで生まれる快楽について。
Vol.05 近視とスキャナー
私は近視だ。そしてコンタクトも眼鏡も毎日つけていると疲れるので普段は裸眼ですご している。おおよそ2mくらい離れると大体のものはぼやけて見えるし20cmくらいの距離が目のピントが一番合うように感じている。待ち合わせで人を待っているとき、特に夕方以降は友人と全く似ても似つかない誰かに反応しては近づいてきたその人を見てびっくりする、ということを繰り返している。年齢も性別さえも違うときもあるが目が悪すぎてシルエットしか見えていないので、そのようなことはよくある。
そのことは日常生活以外、自分の制作の場面でも私のものの見方について静かに影響を与え続けている。例えば、作品の距離と密度。美術館などで大きな作品を見る場合通常2mほど離れた距離から作品を見ることになるのだが、私の場合2m離れてしまうとぼんやりと何が描かれているかがわかるだけなので、全体の雰囲気を確かめた後は気になる部分に向けてどんどん近づいていくことになる。どんどん近づいていくとそこに描かれたものが徐々に鮮明になっていき、そしてピントの合う距離まで来たときにやっとそこにある細部の充実に驚く、という体験をすることになる。全体と細部が同時にやってこない。そして寄ってしまうと大きな作品ではその距離から全体を見ることが不可能になるので、今度は1度に見ることができない細部を順々に見ていくことになる。2mの距離から見たときには全体を把握できるので視線は作品の内容に寄り添いながら画面の中を自由に動き回れるのだが、いざ細部を見るために寄ってしまうと全体は見えなくなり視線は表面のディテールを拾うため機械的に上から下へ、あるいは左から右へと何も見逃したくないと思いながら這うように移動する。
このときにいつも自分の目がスキャナーになったようだと感じる。
スキャナーは私以上に近視である。
スキャナーとはセンサーを通して原稿などの情報をビット単位で読み取る装置で、箱状の機械の上部にガラスが設置されその下にあるセンサーで上から下へ順々に原稿を読み取っていく。そしてスキャナーにとってのピント面は厳密にそのガラス面に設定されている。つまりガラスに密着しているものにはピントが合うが、そこから5cm離れてしまうともうピントは緩やかに外れていき、30cmも距離もあれば細部は見えずただその輪郭がおぼろげに記録されるだけになる。
このおそらくピント範囲3cm程度の極度に近視的な視界というのは視覚というよりは触覚に近い。「舐めるように見る」という比喩はあるけれど、超近接距離での視覚は触覚的な様相を帯びる。
目を閉じて近くにあるものを触ってみる。自分の腕でもいいし、座っている椅子や目の前の壁でもいい。感覚を手のひらに集中させて今自分が触っているものを思い描いてみる。例えば自分のジーンズの表面を手のひらで撫でてみると目を開けて見ていた世界とは全く別の感覚が展開する。まず少しザラザラとした布の質感が手のひらいっぱいに広がって、それは部分でありながら触れていない部分をも含んだ世界全体のようでもある。少しその手を横に移動してみればゴツゴツとした縫い目と出会い、その縫い目は下に向けて永遠に続くように思われる。時々緩やかなシワや布のたまりなどを越えながらどんどんとその手を動かすことでなんとなくの形を把握してゆく。常に手が触れている部分が感覚の全体として知覚され続けながらそれを脳内で統合してひとつの形をつくっていくわけだけれど、この場合は統合する作業より今まさにその手で触れているその「部分」だけに意識を集中させたい。少しでもその布地から(1mmでも!)手を離してしまえば手の感覚はよりどころなく対象を失うが、もう1度その手を布地に触れさえすれば、どこまでも続くような広大な少しザラザラとしたそれでいて柔らかい布地の感触を脳内いっぱいに広げることができる。
この触れている「部分」が「全体」として知覚されること、あるいは「全体」を必要とせず今まさに触れている「部分」に没入することが触覚の快楽のように思える。
そして近視の快楽というものもそのあたりにあるのではないだろうか。全体と細部を同時に見ることができないからこそ、近づいてみて突然見える細部の驚くような解像度。ゆるゆるとした輪郭が視界から消え、充実した細部が目の前いっぱいに広がるその瞬間。私の目がスキャナーのようになるとき、自分の左手の甲を右手で撫でてみるときに広がる皮膚の地平のような世界、それに似た驚きを見ている。
だから私は自分の近視を気に入っている。