写真家、細倉真弓さんによる連載エッセーがはじまります。ものを見ること、そのシンプルな行為の奥深さを味わうような、細倉さん自身が筆を執られた視覚的考察です。あなたの目に映る世界にも、新しい発見があるかもしれません。
Vol.01 写真的体験
写真的な体験というものがある。
写真そのものを眺めるよりもより写真的であると言うしかない体験。冬の晴れた日に道に落ちた濃い影の輪郭の中を歩いている時だとか、下着の跡が残った肌の表面をなぞってみる時だとか、水面で反射してゆらゆらとゆれる向かい側のビルを眺める時であったりとか、前を歩いている人の歩き方を自分の体で真似してみる時だとか。
私がここでやってみようとしているのは写真というものを客観的な記録のツールとしてよりも、より個人的な体験の中にある「写真的なるもの」を掘り起こす試みである。それは目に映るものばかりとも限らなく、目を閉じてまぶたの裏側にちらちらとまたたく光の粒にもそう感じる。大島弓子の「ジギタリス」という漫画作品の中において友人の兄が「眠れない時無理に目を閉じているとどこからともなくわいて出て消滅する不定形の発光体」「その1番でかい1番明るい星雲」に「ジギタリス」と名付ける印象的なシーンがあるのだが、私はこの記述にとても「写真的なるもの」を感じる。視覚の実体と現象のあわいにあるような超個人的な視覚の体験として。
写真が写真になる以前、カメラオブスキュラと呼ばれる小屋の中で画家たちは外の風景を針穴を通して手元の画板に映しそれを書き写して定着させていた。その画板に映されていた画像を人の手を使うことなく化学的作用で定着させたものが写真となるのだけれど、もし定着という行為以前、ちらちらと手元で揺れるマジカルで幻惑的なその画像(映像?)そのものが写真であったのだとしたら?
そんな仮定のなかで写真が写真に定着される前の体験と写真になった後の写真について考えてみたい。それは客観的な視覚=正しい視覚という役割の写真とは違う、より個別的な視覚を共有するための写真についての話である。
日々写真を撮りながら、自分の中に突然やってくるひらめきのようなものは、しかしあっという間に自分を通り過ぎてどこかへ行ってしまう。それでもぼんやりとした理解の端のようなものは体の中に蓄積され続けて自分が何をすればいいかを少しだけ教えてくれる。そのぼんやりとしたまま放置していた切れ端のようなものをここで自分のために名前と形を与えることができるだろうか、そう思って文章を書いてみたいと思った。
カメラオブスキュラの中で見る光、ハードディスクの中に蓄積されていくrawデータ、泣けば目の前が曇る極めて個人的な視界、そんなような形になる少し前の写真について少しずつ書いていきたいと思う。