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Column

2018.06.05

始まりの森 ― 河瀨直美監督作品『Vision』

文/岡澤 浩太郎

田圃のど真ん中の小屋で眠ったことがある。夜、雨が降った。四方から圧するほどの蛙の声。まっすぐに落ちる、透明な雫の音。明け方、今度は何種類もの鳥たちの、それぞれの声が何層も何層も重なった。その奥で聞こえる、風の鳴る音、木々のざわめき、虫の声。分厚くて、大きくて、でも健やかで、こんな音楽は聴いたことがなかった。河瀨直美のどの映画にも、これと同じ風景がある。最新作は『Vision』という。

『Vision』主演の永瀬正敏(左)とジュリエット・ビノシュ (c)2018“Vision”LDH JAPAN, SLOT MACHINE, KUMIE INC.

舞台は修験道の聖地として知られる、奈良・吉野の、深い森。この地で1000年に一度だけ姿を見せると伝えられる幻の植物をめぐって、フランス人の女性エッセイストと、山守の男が出会う。やがて“その時”の到来を告げるように、幾人もの人物が去り、あるいは現れ、時が穏やかに混沌としていく。過去が去来し、現実と重なりながら、次第に森は、原始の風景へと還り、未来へ歩んでいくのだ。

劇中より
劇中より
岩田 剛典(左)とジュリエット・ビノシュ

河瀨直美の映画には、いつも森が映る。約20年前にスクリーンで観た、彼女の長編デビュー作『萌の朱雀』の、あのおおらかで、やさしく、守ってくれそうな森の姿が、私はいまも忘れられない。けれども時を経た本作では、森の表情はどこか変わってしまった。厳しく、傷つき、戦っているようで、静かな怒りすら感じる。河瀨は言う。「私が幼い頃に遊んだ春日山原始林は、昔はもっと水を湛えていましたが、いまは乾いた感じがします」。人が離れて、森は荒れたのだ。20年という月日の残酷さを、映画は映してしまったのか。

永瀬 正敏
森山 未來
田中 泯

けれども河瀬の、自然に向けたまなざしは豊かなままだ。実際、普段の生活でも、例えば、万葉集に詠まれた佐保川がそばを流れる自宅には、至るところに必ず植物を置き、いつも声をかけ、手をかけ、整えているという。またいまの時期は夜明け前に畑に出て農作業をし、日の出とともに帰宅して、朝食の準備をするそうだ。「先日、夏野菜を植え終わりました。いまは雑草との戦いです。まもなく田植えです」。そのような生活が「楽しい」「心と体にいい」「私を癒してくれる」のだと。

夏木 マリ

だから植物や、植物と人の暮らしの結びつきには、いつも繊細で、敏感なのだろう。本作の象徴である通称“モロンジョの木”は、その実が利尿効果のある生薬になること。劇中に登場するトウキという植物の根は女性の体に効果があると言われていること。そもそも吉野という場所が、かつては貴族が薬草を摘んだ“薬猟”の舞台であり、古代の“再生の地”であったと日本書紀に書かれていること。河瀨が拾い上げた、そうした歴史や物語のいくつもの断片が、森を多弁にしていく。

そう、確かに人は、森とともに生きていたのだ。何世代もの人たちが、森から生まれ、森に還っていったのだ。映画はクライマックスで、火という大きなエレメントを借りながら、あらゆる登場人物たちの身体が、そして魂や記憶さえもが、静かに解け、森や自然とひとつになり、死から生へと向かう大きな流れに抱かれていく様を、描きだす。その壮大な流れに身を任せながら、ある老女は「こんなにも美しかったんだ」と口にするのだ。ここには美がある。ここで美が生まれたのだ。河瀨は言う。

「私にとって美とは、剥き出しの、飾らなくても、あるがままで、私の心を動かす存在です」

そのような原始的な風景を、私は野性と呼びたい。

映画『Vision』
出演/ジュリエット・ビノシュ、永瀬正敏、岩田剛典、美波、森山未來、田中泯(特別出演)、夏木マリ
監督・脚本/河瀨直美
企画協力/小竹正人
エグゼクティブプロデューサー/EXILE HIRO 
プロデューサー/マリアン・スロット、宮崎聡、河瀨直美
配給/LDH PICTURES 
公開/6月8日(金)全国ロードショー
公式HP/http://vision-movie.jp/  
公式Twitter:@vision_movie_
【2018年/日仏/110分/シネマスコープ】(c)2018“Vision”LDH JAPAN, SLOT MACHINE, KUMIE INC.

岡澤 浩太郎

編集者

1977年生まれ、編集者。『スタジオ・ボイス』編集部などを経て2009年よりフリー。2018年、一人出版社「八燿堂」開始。19年、東京から長野に移住。興味は、藝術の起源、森との生活。文化的・環境的・地域経済的に持続可能な出版活動を目指している。
https://www.mahora-book.com/